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評者◆秋竜山
ハイちょっとそこまでよ、の巻
No.3184 ・ 2014年11月29日
■これ以上、大きなお世話はないだろう。ところが、それを言ってしまったら、おしまいである、ということだ。言葉のむづかしさ。そういうやりとりは、いたる所でみんないってるだろう。第一、どこへ行こうが行くまいが、まったくもって大きなお世話である。「オヤ、どちらへ」「ちょっと、そこまで」。これだけの言葉のやりとりである。言葉にしなければいいだろう。でも、どーしても、いいたくなってしまう。「お早ようございます。今日はいい天気ですねぇ」「お早ようございます。本当にいい天気ですねぇ」の、あいさつと、まったく同じだ。小林隆・澤村美幸『ものの言いかた西東』(岩波新書、本体七八〇円)で、それを取りあげている。〈相手の領域に立ち入る〉と、いう項目。
〈これは見方によっては相手の私的な領域に立ち入る行為とも言える。プライバシーや個人情報の保護に敏感な現代人の感覚からすれば、「起キタカ」「ドコニ行クカ」などと聞くのは、なんともぶしつけな感じがしてしまう。しかし、そうした立ち入った会話が挨拶代わりに普通に行われている地域が日本に存在する。東北大学方言研究センターでは、会話資料に基づく言語行動の記録作業を進めているが、その一つ、気仙沼市でのやりとりを見てみよう。二〇一二年に高年層男女を話者として収録したものである。まず、朝、道端で友人にあったときの会話。 女 アレー、ドコサ行グノー。 男 仕事スサ。今、商売デ行グドコ。 女 アー、ホント。ア、ンデ、行ッテダイン(行ってらっしゃい)。 男 ハイ、マイドドーモネー。 女 ハイー。(「伝える、励ます、学ぶ、被災地方言会話集」四九頁)〉(本書より) よくマンガなんかにある一コマだ。なにも考えなければ、平凡で、まともな会話のやりとりである。みごとな、正しい挨拶である。自然体だ。「ハイ!!ちょっとそこまで」と、いって、ニューヨークであったりする。地球の裏側であっても、ちょっとそこまでになってしまうのだ。宇宙のはてまでもが、ちょっとそこまで、である。 〈東北人の会話が短いことはよく話題にされる。「ドサ(どこへ)」「ユサ(湯へ)」で会話が成立するとう話は有名である。〉(本書より) このようなやりとりが遠くから聞こえてきたりすると、「日本だなァ……」と、しみじみした味わいがある。「どこへ行くか」があれば、「どこへ行ってきたか」も、あってもいいだろう。「ちょっと、そこまで、行ってきた」で、すむわけだ。こっちも、「そーかい、ちょっと、そこまで行ってきたかい」と、言葉をかえすが、はたして、どこへ行ってきたのかサッパリわからない。わからないけど、了解である。 〈「以心伝心」という言葉がある。たしかに、人間は黙っていてもわかり合えるものである。しかし、いつもそうであるとは限らない。「黙っていちゃわからないだろ」と詰問されることもあれば、憤慨している相手を「話せばわかる」となだめることもある。(略)〉(本書より) 「おー、どーだ」でもいい。声をかけられると、うれしいものである。 |
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