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評者◆安部彰
ヘイトスピーチに「リベラル」として抗するということ――多様性へのリスペクトをその旗幟とする「リベラル」の使命とは何か
No.3183 ・ 2014年11月22日




■日本におけるヘイトスピーチ問題を知ってから、苦々しくも、不思議におもってきたことがある。それは、ヘイトスピーカーがいかなる動機から、かくも趣味のわるいこと――こう述べることは「差別は趣味の問題には還元されない悪だ」という見解と矛盾しない――に執心しているのかということだったが、社会学者の樋口直人による分析は、この問いへのひとつの回答であるだろう。すなわち「日本型排外主義とは近隣諸国との関係により規定される外国人排斥の動きを指し、……排斥感情の根底にあるのは……近隣諸国との歴史的関係」(『日本型排外主義』)と喝破するその見解によると、日本におけるヘイトスピーチは――差別かつ悪趣味かつ――「政治的な活動」でもあるわけだ。
 だがそうだとすれば、先の問いは、ヘイトスピーチに「リベラル」として抗するとはどのようなことかという問いへとさらに接木されざるをえない。本エッセイでは、この問いをめぐる試論的考察をつうじて、あくまで「リベラル」という限定付の視座から、ヘイトスピーチへの倫理的対抗の意義とその可能性を提起したい。
 まず本稿では、「リベラル」や「リベラリズム」と鉤括弧に括ることで、リチャード・ローティという哲学者の説く倫理的態度(その態度を行動原則とする人々)や思想・教説をさすことにする。また「リベラリズム」に注目する所以は、ひとまず私が「リベラリズム」にとても共感するからである。とはいえその共感は多くのひととわかちあえる――いや、すでにわかちあっている――ものであることも以下では論じたいとおもう。
 さて、「リベラリズム」はとてもシンプルなもので、それはローティによる「リベラル」の定義にも明らかだ。すなわち「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人びとが、リベラルである」(『偶然性・アイロニー・連帯』)。ここでいう「残酷さ」とは、ローティは必ずしも明示しているわけではないが、人間にとって「共通悪」と名指しうる苦痛をもたらす作用のことだ。ならば、その社会的属性の如何を問わず、「残酷さ」の悪にうち震え、これに対抗せんとする者はすべて、この意味において「リベラル」の徒であるだろう。そのうえで「リベラリズム」において、「残酷さの回避」は、まずもって共生のための倫理にほかならない。つまりその信念(や身体)においてそれぞれ多様である人々が遵守すべき公共的な規範を意味する。だが他方で、「リベラリズム」は自由のための倫理、すなわち19世紀の哲学者J・S・ミルが提起したリベラリズムの現代版でもあって、それによれば、残酷さの回避という規範に抵触しないかぎり、各人が自由にその信念を(再)創造すること――「好きなだけ私事本位主義的で、「非合理主義的」で、審美主義的にすること」(前掲書)――は推奨されるべきである。たとえば、他人にはきわめて特異で無益にさえみえる信念(や趣味)であっても、誰にも危害が生じないかぎり、それを追求する自由が各人に認められるべきであるというわけだ。
 さて、この「リベラリズム」に照らしたとき、ヘイトスピーチが倫理的な問題であることは自明である。「リベラル」にとって他者に多大な危害をもたらす信念の公的な場での表明は――それが「意見」や「表現」、「政治的な活動」でもあるとして――到底許容できないからである。すると、ヘイトスピーチは法的に禁止すればよいということになるか。そう問われると、けれども「リベラル」は原則的には躊躇するだろう。というのも自由の倫理でもある「リベラリズム」は強制よりも説得に訴え、多様性に寛容であるという倫理的責務を「リベラル」に課しもするからだ(Rorty,Objectivity,Relativism,and Truth)。
 すると、ヘイトスピーチが拡散する「残酷さ」に対抗する術を「リベラル」はもたないのか。そんなわけがない。「リベラル」の提案は我々の目先を変えること、すなわち他者にたいするヘイトスピーカーの共感能力を高めることだ。ローティのことばを借りれば、「感情教育」をつうじて他者が被っている苦しみへの感受性と、他者とのオルタナティブな関係を「再記述する能力」(想像力)を養うことだ。
 だがこうした「リベラル」による提案=対抗には、「なにを呑気なことを」とみる向きもあろう。たしかに速効性はないかもしれない。だが教育という営みは、むしろ性急であるべきではない――速効性のある教育に恐怖を感じるひとは少なくないはずだ。そのうえで、共感の拡張による人権の拡張の歴史が現存するとおり、我々には希望がある。すなわちリン・ハントが『人権を創造する』において活写するように、18世紀の西洋ではまだ観念として存在していたにすぎない「人権」は、絵画鑑賞や読書の経験に媒介された「想像された共感」――あなたは私でもあるという想像――という人々の間身体的で共振する実践をつうじて、血肉をあたえられ拡大していったのだ。してみれば、そうした希望を現代の希望――想像的で創造的な反ヘイト/レイシズム的諸実践――へ接続しつつ、さりとてさらなる希望も切りつめることなくヘイトスピーチに抗していくことこそ、多様性へのリスペクトをその旗幟とする「リベラル」の使命であるだろう。
(大阪市立大学ほか非常勤講師/倫理学・政治哲学)







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