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評者◆杉本真維子
闇のはしご
No.3181 ・ 2014年11月08日




■換気扇から、烏の鳴き声が聞こえてくる。声の出どこは屋上なのか、台所のシンクの前に立ったときだけ、その声がBGMのように流れてくる。五階建ての五階。屋上へは行ったことがない。階段の踊り場の天井に、屋上へとつづくはしごがあるが、人を拒むように高い位置に掲げられていて、闇に浮いた状態になっている。異界への入口のよう。見るともなしに見てはそう思う。
(あれをのぼっていく人はどんな人なのだろう。二十年近く住んでいるが、一度も見たことがない。)
 この奥に烏がいるよ。台所から、リビングにいる母に向かって言った。子どもの烏かもね、という声が返ってくる。ぐるっぐるっと唸っていることもある。本当に烏なのか。おののいてその場を離れる。
 すがたは見えないのに声だけが聞こえ、窓の外は強風で、カシノキがぶ厚い髪の毛のように揺れている。そういえば何日も、出かけていない。友人の顔が浮かび、元気だろう、と決めつけると、「拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」という慣用句が、頭の上に落ちてきた。単なる形式とわかってはいても、読むとサッと神経が立つことがある。勝手に決めつけて安心しようとする自分の都合のよさに、敏感になっているのだ。
 私の部屋には、学生時代から一緒に暮らしている十四歳の猫と、亡き父から受け継いだ推定七歳の猫がいる。歳が倍違うと、一人の人間の歴史を見るような感慨がある。動きの機敏さ、興味の幅。年とったほうの猫は、やさしい性格は変わらないものの、持病のため少々気難しくなっている。若いほうの猫は、活発だが、いつもさびしさに震えている。
 その若いほうは、就寝時、私の腹の上に乗っている。苦しいので横向きに寝返りを打つと、絶妙なバランスで脇腹の辺りに留まっている。降ろすと嗚咽のような、しわしわした声で鳴き、強引に乗ってくるので、それはだんだん人間の声になってきて、本当は人間もこれくらい甘えたいのだろうか、と電気を消した部屋のなかで考える。絲山秋子の小説のなかに「自分が甘える以外につき合い方を知らない」という言葉があった。では、子をあやす母親はどうか、といえば、あれは甘えるのではなく与えている。けれども、いつか子を送りだし、自分の手を離れた安堵感のなかで、与えるという甘え方もあったのだと、母親は思うかもしれない。
 これらのことは、私が眠っていたときの出来事でもおかしくはなく、泡が割れるように夢から覚めると、私の一生も消えてなくなるのだ、と思った。年とった猫に、私の寿命をちょっとあげるね、と言ったことがある。ちょっと、という言葉のなかで、生きる意志と生きない意志が拮抗する。神の手中にある命の時間に、口を出したことの畏れ多さに身を縮め、小声で詫び、それでも、あげるね、と何度でも言う。歯向かうような痛みのなかで、生の芯のようなものに触れる。
 夜になると、また換気扇の奥から唸り声がひびく。はしごは相変わらず闇に浮いていて、これからものぼらないという予感が、かえってそこにあるものの存在を永遠に支えていく。死後も意思が残るなら、あのはしごはのぼらない。異界への入口の手前で、誰もが等しく夢を見る。







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