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評者◆秋竜山
負けるな徂徠、笑いあり、の巻
No.3179 ・ 2014年10月18日
渡辺京二『無名の人生』(文春新書、本体七五〇円)で、
〈「アメリカやイギリスではこうだけれど、それに引きかえ日本は……」というかたちで議論を展開する。〉(本書より) その昔は、何かといえば、アメリカであった。アメリカが出ないと話にならなかった。たしかに、そーいうところがあった。今でもいえるかもしれないが、一〇年後の日本はアメリカ的になるようになっていた。そして、アメリカにすごいあこがれをもっていた。 〈江戸期にも、中国に憧れる文人は少なくありませんでした。〉(本書より) そして、本書に〈荻生徂徠〉の名前が出てくる。荻生徂徠といえば江戸中期の儒学者で超有名人である。超有名人となれば、アイドルというか、ちょっと角度を変えると、笑われる対象となってしまう。儒学者ということで江戸庶民になにかにつけて笑われたようだ。当時の流行作家、式亭三馬はそれをのがさない。すぐさま浮世床という作品で笑わせている。〈髙慢な素読指南の先生〉という人物が登場する。〈生国は、いづれ片田舎の者、遊学の間四五年になれど、江戸の事はむちゃなり、〉と、いう人物設定。〈昭和五年四月十三日発行、有明堂文庫、浮世風呂、浮世床、非売品〉と、いう古い本があったので、その本から引用すると、浮世床に孔糞という名の儒学者が出てくる。 〈孔糞、毛受をもって腰をかくる、びん五郎は髪をとかす。孔糞むかふの壁に、張付けある寄のびらを見つめていたりしが、 孔「ムゝ」トハ、いへども根からわからず、「ハテナ、おれは俗事に疎いからとんと解せぬ、」又此方を見て、「今昔物語ト、何だ朝寝房夢羅久、フウ」ト、考へ、「林屋正藏、ハテナ(略)」 びん「ムゝあれは今昔物語さ、朝寝坊夢羅久、林屋正藏、こっちらの方が圓生さ。どれも上手な咄家さネ」(略) 孔「コレ主人咄家とはどうしたものだ。」 びん「落話をする手合さ。」(略) 孔「(略)笑話家とか、或は落句に可笑味を取るゆえ、落話家ともいへばよいに、咄家とはイヤハヤ実に絶倒。ハ……。」(略)〉 この後も、おしゃべりが続く。 〈びん「(略)、何でも家の字を付けたがるよ。」 孔「口を能くしゃべる者を多辯家、物を多く食ふ者を食乱家、或は飽食家」 びん「酒をよく飲む者を飲家」(略) 孔「酒を呑む者を酒客、酒屋を酒家」 びん「馬によくのる人を馬家と云ったら腹を立つだらう」〉 式亭三馬は江戸の人々の会話を文章化する天才だろう。江戸の人々がそこにいて会話が耳に入ってくるように伝わってくる。儒者が知識人であるということから一般の人々からみれば、それが笑いとなってしまうだろう。その代表格が荻生徂徠であり、この名前を聞いただけでも笑えてくる。徂徠行くところに笑いありだろう(これはたいしたものだ)。荻生徂徠を抱腹絶倒の喜劇に仕立てる作者があらわれないものかしら。それともすでに演じられているかもしれない。面白がることを考えるのは誰も一緒だろうから。 |
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