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評者◆杉本真維子
日傘と音楽
No.3176 ・ 2014年09月27日




■ココ近道、という看板に沿って、自宅から新宿西口のほうへ歩いていると、潰れたオルゴール屋の向かいの建物の二階から、音楽が聴こえてきた。声の肌理が詰まった、ハリのある若い女性の声。でもときどき微かにふるえて、そのアンバランスさが演奏からもれるノイズと溶けあい、力強いのに脆く美しく、なんだか切なくなってくる。こんなところに練習スタジオなんてあったっけ。立ち止まって聴きたくなったが、急いでいたので、我慢した。気になるけれど、いまは忘れ物のほうがもっと気になる。
 昨日、銀行のATMコーナーに、日傘を忘れたのだった。休日なのに意外にもコールセンターは営業していて、電話で尋ねると、ないですね、とつれない声で言われた。防犯モニターもないのでわかりませんねえ、とも言っていた。こちらからそれを尋ねたわけではないが、切ってから、防犯モニターがないというのは業務上の嘘ではないかと思った。日傘ぐらいで、モニターのチェックまで要求されたら仕事にならないだろう。
 ないと言われたのに、わざわざ見に向かったのだ。なぜこんなに必死なのか、単に気に入っている、という理由だけではない気がした。汗を拭きながら辿り着き、コーナーを見回すと、やはりないものはない。パンフレット置き場の下まで手を突っ込んで探すと、いかにも男性物の、折り畳みの雨傘がぬっと出てきた。これだろうか、と考えこみ、これであるはずがないと思い直した。要するに、何でもいいのではないか。探すという行為はじつに不可解だ。
 諦めて、来た道を戻ると、さっきの歌声がまだ流れていた。間に合った、とホッとしたものの、二階へと続く階段は薄暗く、時折聴こえる楽しげな話し声が、私を急激に孤独にした。よそ者はこのまま帰ろう。そう思いながらも、足はもう階段を上っていた。どうやらここはライブハウスのようで、かたく閉ざされた扉の外に、小さな赤い丸椅子がひとつ、置いてある。そこに浅く座って、聴いていた。中から人が出てこないようにと、びくびくしながら、じっと耳を傾けた。ひどく懐かしい歌声とメロディ。私の忘れ物はこれだったのではないかと、日傘の紛失から、この音楽との出会いまでが、予め用意された完璧な道順であるように思われた。
 突然、扉があいて、人が出てきた。盗み聞きしている後ろめたさに身を縮めると、そのロングスカートの女性は、お手洗い待ちですか、と話しかけてきた。いえ、あまりにもいい歌だったので……、と正直に答えると、誘われたんですね、と微笑んだ。誘われた、が述部となって、私の答えはワンセンテンスに整い、声の主の名前だけでも教えてほしい気持ちが噴きだして、手帳を取り出し、取材記者のように、彼女からの情報を書きとめた。どこがよかったのか、本人に伝えると喜ぶので、教えてください、と言われ、いのちの脈動というか、と初対面では場違いとしか思えない断片を口にした。すると同じ言葉を彼女は繰り返し、合点がいったように強く頷いた。私は誰と話しているんだろう、と思った。
 頭のなかには便利な再生機能が付いている。自宅までの帰り道、覚えたてのメロディを流して歩いていると、閉店間際の店が、慌しく商品を片付けている。白い大袋にモノがどんどん仕舞われていく。視界の端に、見覚えのある日傘が見え、咄嗟に、あ、その傘! と声を上げた。残りこれ一本です、と店主は言った。見せてもらうと、なくした日傘とそっくりだが微かに色の配分が違っていた。即座にお金を支払い、まるで盗んだかのような速度で手に入れた日傘をじっと見た。同じようで同じではない。そのズレにできた隙間に、さっきの音楽がきちっと収まった。







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