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評者◆前田和男
若きLGBT人権活動家・尾辻かな子の巻⑫
No.3175 ・ 2014年09月20日




■転機になった市長選と国政の公開討論会

 大阪府茨木市議・桂むつこの下での尾辻かな子のインターン修業は、当初の予定では春休みで終わるはずだったが、“延長”されることになった。4月に行なわれる茨木市長選の公開討論会企画が桂むつこ事務所の周辺から持ち上がったのだ。
 若者の政治離れ、選挙の投票率の低下が言われ始めていた。有権者に開かれた討論会ができれば自分のような一般人には遠い政治が近くなるかもしれない、と尾辻は興味をおぼえた。一方で、日本では事実上、公開討論会ができないようになっており、それが政治を遠くしていると知って、今更ながら日本の政治の貧困に驚かされた。桂自身は議員であるため、政治的中立が求められる公開討論には直接かむことはできない。桂のインターン生だった学生を中心に挑戦することになり、尾辻が実行委員長を引き受けることになった。
 1996年4月、リンカーンフォーラムというNGO団体(初代代表・小田全宏)が、当地のJC(青年会議所)などと組んで公開討論会を実施して話題を呼んでいた(1997年に宮城県知事選、98年には参院選で全国展開)。このリンカーンフォーラムとの共催で、彼らから基本フレームは提供してもらったが、現場の茨木に落とし込むのは、初めての試みなのでノウハウの蓄積がない。ゼロから試行錯誤しながらつくりあげなければならず大変ではあったが、尾辻にはやりがいがあった。桂はJCにつなぐなど側面支援に徹して、全体の企画と運営は尾辻の自由にさせてくれた。
 さらに6月には衆議院選挙があり、桂の地元である大阪9区の立候補予定者を対象にした公開討論会にも挑戦。どちらも成功裡にやり遂げることができた。「今から考えると、あれが一番自分の中では転機になった」と尾辻は述懐する。
 いっぽうで、公開討論にかまけているうちに、就職活動はなおざりになった。「教職免許だけはとっておくように」という母親のたっての願いを聞き入れて、5月までは教育実習をこなしたが、教師になるつもりはなかった(学校という場がもつ指導的な雰囲気に違和感を覚えていたからだった)。その教育実習が終わったら、就活の第一陣は終わっていて、同級生の多くは有力企業から内定をもらっていた。
 それでもまだ第二陣があったが、尾辻はまたまたその機会を逸することになる。
 桂に次ぐインターン候補先だった箕面の市会議員の増田京子の選挙が8月にあり、桂から誘われるままインターン気分の延長で、泊まり込みの応援に入った。その傍らで、LGBT関連の活動にも関わった。7月に「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に呼応して企画されたその関西バージョンの運営にボランティアで参加した。
 その二つが一段落したところで、今度は桂から声がかかった。
 通常、地方議員の場合、来るべき選挙の1年前、遅くても半年前から、事前ポスターを貼ったり後援会の掘り起こしなど準備活動に入る。桂むつこの選挙は翌2001年1月だった。そろそろ選対を始動させなければならなかったが、前回選挙の事務局長だった女性が妊娠したため下りることになった。そこで学生で時間もあるからと、尾辻にお鉢が回ってきたのである。なんだかんだ雑務があり時間がとられる。3年生までにかなりの単位をとっていたので学業のほうはなんとかなったが、秋口から選挙活動を手伝っているうちに就職活動はどこかへ飛んでしまった。年が明け桂は2期目の当選を果たすが、尾辻のほうはちゃんと単位をとって卒業はしたものの、気が付くとゼミの中で就職が決まっていないのは自分一人だけだった。
 かくして退路は断たれたが、次にどこへ進んだらいいか、なお尾辻には迷いがあった。桂のインターンとなることで政治に出合い、政治の魅力を知ったが、政治を志す決断はまだわいてこなかった。
 たしかにインターンをして政治を身近に感じ、それを変えなければと思うようにはなった。しかし、今まで小市民的な体制の中で生きてきて、その体制を変える担い手に自分がなれるとは思えなかった。それはもっと才能のある特別な人の仕事ではないか。そんな才覚は自分にはない。さらに桂の活動を目の当たりにするにつけ、「こんな大変な仕事はようやれん」と腰が退けた。そもそも政治活動には必須の演説が苦手だった。桂の選挙応援に同行したとき、「はい、オッツン、ちょっとやってみる」と桂からマイクをぱっと手渡されて、尾辻はただただ恥ずかしくてろくにしゃべれなかった。自分が演説する側に立つのはかなりハードルが高かった。むしろ公開討論会を仕込む“裏方”なら達成感もあり向いていると思えた。
 そういえば、以前公開討論を終えたところで、“進路”について桂とやりとりがあり、棚上げになったままだった。当時の日記に尾辻は迷いをこう書き記していた。「(桂事務所で)私自身の話になった。私は何をやっても自信が持てない。そうしたら、桂さんに、『自信過剰の人もなんか嫌やけど、そこまで自分を見れへんのもどうかと思う』って、バシッといわれてしまった。桂さんは、『もっと冷静になって自分を見てみ』と、私のことを『主体性がある』って誉めてくれた。けど、『ほんまにどうしたいん?』って聞かれたら、何も判断できへんと思う。自分の中で将来の絵を描くこと。そんなこと考えたこともなかった。自分自身のプロデューサーになること。自分がそんなふうになっていいなんて、知らなかった。自分が誰かを動かすことなんて、できると思ってなかった。『兵隊』でいることの楽さ。(以下略)」
 尾辻の中には、できれば「兵隊」のままでいたい自分がまだいたのである。
 もうひとつ、悩みと逡巡のもとがあった。桂と出会ってから政治活動にかまけていたため、付き合っていた「彼女」と一緒に過ごす時間が激減、「政治と恋人、どっちが大事なの」と不満をぶつけられて別れるはめになった。その後できた「彼女」も、大学卒業で東京に就職が決まって尾辻は動揺した。自分も東京に就職したいと面接を受けにいったが、「政治の手伝いの合間を縫っての東京通い」もそのうち旅費が続かなくなった。
 とりあえず大阪で就職をして生活費を稼がなければと、尾辻は切羽つまった。そこへ桂の地元の大阪9区から弁護士の中北龍太郎が社民党から立つことになり、支援団体も立ち上がった。些少ながらも給与がでるというので、誘われるままに事務局に専従で入った。それを1年ほどやるなかで、専従よりも議員になりたいという思いがついに尾辻の中に具体的な形をもってめばえた。政治に関わり続けようと思ったら、やはり議員になった方がいいのではないかと。
 それで桂むつこに相談をした。「私もどこかで選挙に出たい」。統一地方選挙を1年先に控えた、尾辻かな子27歳の時だった。
(文中敬称略)
(つづく)








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