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評者◆池田雄一
ポスト冷戦文学について語ろう
No.3175 ・ 2014年09月20日




■――このところ、集団的自衛権がらみの本がでています。有名どころとしては、豊下楢彦/古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)あたりがあげられると思いますが。
▼憲法の解釈により集団的自衛権の行使は可能とする、例の「安保法制懇」の報告書に対しての批判だよね。たとえば、北朝鮮からのミサイル攻撃を想定しているくせに、原発を再稼働するのはどう考えてもナンセンスだとか。
 それで気になるのは、こうした批判があくまで国家的理性の観点からなされているということだ。佐藤優という人は、国家的理性の裏面という印象があるけど、豊下氏のような人は、国家的理性そのものという印象がある。状況を適切に見きわめたうえで、適切な判断をくだすということなんだけど、この場合の国家的理性というのは、軍事的理性のことだよね。地政学的な状況をふまえたテクノクラートによる合理的判断。まあ集団的自衛権というネタがそうさせるんだろうけど。
 ――笠井潔/白井聡『日本劣化論』(ちくま新書)なんて本も出ました。
▼豊下楢彦とはちがうけれど、白井聡も広い意味での地政学的な判断を基礎にして批評している。この人は、ぎょっとするようなことを言うんだけれど。たとえば、昭和天皇の立場からすれば、徳川もマッカーサーも、征夷大将軍であることは変わらないとか。昭和天皇というアイコンから、ナショナリズムとは無縁のシニシズムを読み取っている。
 『季刊at』のなかの座談会で、白井氏は憲法について「理念としては改憲論者だけど、現状を考えると護憲」と立場表明している。安倍晋三とはちがう意味で戦後レジームからの脱却を考えているわけだから、当然と言えば当然だけど。
 けれど、超越的な審級をぬきにして憲法が制定できるのかという問題はあると思う。たとえば人権を考えたときに、神とか天とか自然とか、超越的な審級から贈与されたものとして語られていることが多いよね。日本の戦後の憲法というのはその超越的な審級がたまたまアメリカだったということに過ぎない。
 ――そういえば東浩紀『弱いつながり――検索ワードを探す旅』(幻冬舎)という本が出ましたね。東氏によるエッセイです。
▼確認すると、技術の集積が人間の知性を凌駕する状況というのが彼の批評的モチーフだよね。結果的に、一貫して人間の主体化を前提とした理論を排除している。もともと彼はデリダの研究者だけど、デリダの「エクリチュール」は「テクノロジー」と言い換えて考えると面白いことになるんじゃないかな。技術というものは人間の意図に還元することができない。人間の意図に関係なく蓄積もされていくけれど、それを人間の進歩と勘違いしているのが人間中心主義でしょう。
 この本ではいかにネットから逃走するかが語られているけど、これは逃走することで検索ワードをむしろ蓄積させていくという話なんだよね。ネットにない言葉を入力しないと、ネットに蓄積されていかないんだから。
 ――今更ですがこの連載は「文芸時事放談」と銘打ち、文芸作品と時事ネタとなる本の両輪ということでやってます。集団的自衛権をめぐる憲法の話が冒頭に出て改めて思いますが、今の日本の小説って、世の中に追いついていないんじゃないですか。純粋培養的に作家が自らの思う表現世界を追求しているとすれば、それはそれでよいのかもしれませんが、世の中の今との接続点がどうも見えてこないものが多いようにしか思えないんです。二、三年遅れで原発を扱う小説がようやく増えてきても、現実はもう次にいってしまっている。
▼フィクションを作るときの想像力が、とうの昔に現実に追い越されてしまったのでは、という話だよね。作品の善し悪しとはべつに、たとえば『蟹工船』みたいな小説って、ドヘタと言えばそうなんだけど、なんとなく追い越されていない感じがあるでしょう。あるいは初期の大江健三郎の作品を思いおこしてみても、現実に追い越されていないイメージがある。
 ――村上龍も追い越されていなかった感じがします。
▼そういえばそうだね。それを踏まえると、やはり冷戦が終わったのが大きいのでは。村上龍もそれ以降は、なんだか急速に立ち位置が変わった感じがする。柄谷行人が言っていたけど、冷戦のような強固な敵対性にもとづいた二元構造が世界のなかにあると、第三項が意味を持つ。しかし、その第三に実体があるのかと言えばなくて、むしろないことに意味があった。フィクションとしての第三項に意味があった。
 初期の大江について言えば、日本を第三世界に書き換えたことに意味があるんだと思う。第三項に意味がある状況のなかでは、小説のようなフィクションが意味を持っていた。冷戦が崩壊し、二元構造がなくなったことで、オルタナティブを提示することと敵対性の物語に巻き込まれることがイコールになってしまった。これはオウム真理教を思い出すとわかりやすい。
 そうしたなかで重要になってくるのが笙野頼子という作家なんだと思う。
 ――『未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の』(講談社)が単行本になりましたね。作家と思しき人間が、じつは膠原病だったということが語られています。
▼こういう言い方はあまり使われていないと思うけど、笙野頼子は「ポスト冷戦の作家」なんだと思う。
 おそらく中上健次と比べるとよくわかるんだけど、彼はやはり第三世界を作品のなかで作り上げた作家なんだよ。路地というのはそういう場所だよね。もちろん実際に存在するけれど、彼の作品においては徹頭徹尾フィクションの世界であって、実際の路地とは切り離されている。それが可能だったのは冷戦構造があったからだよ。
 一方、笙野氏の作品は、やはりフィクションなんだけれども、中上健次や大江健三郎のそれとは全く違った質を持っている。
 ――それって何なんでしょう。
▼何だろうね。『未闘病記』というのは、メランコリーとか疲労感といった文学的なモチーフが、じつは膠原病によるものだったということが書かれている。それまでは実存の問題だったことが、オセロがひっくり返るように治療可能な即物的なものへと変わっていく。タイトルからもわかるように、これは闘病記批判でもある。
 ――文芸誌の話にいきましょうか。岩城けい「Masato」(「すばる」)は三〇〇枚一挙掲載ですね。親の転勤に伴い、オーストラリアに住むことになった小学生の男の子が主人公の小説です。
▼さっきの国家的理性の話は、正しく状況を見据えられて、かつ実行できる主体が前提になっている。それって強さを求められる主体であって、ゆえに国家を必要としている。対して、この「Masato」の主人公の男の子はそれとは正反対の弱い主体なんだよね。ひたすら状況に受動的で右往左往していて、判断も正しく下せているわけでもない。この小説のモラルはこの子の弱さからきている。
 子どもという存在を出すことで、マルチカルチュアリズムの隙間を抉り出している。多文化主義ってさまざまな文化を横並びに扱うけれど、その反作用として、それぞれの理想化が為される。理想化しなければ一括りにできないからね。すると、そこから漏れこぼれる、理想化されない無記名なものが必ずある。そのことを描いているからこの小説の価値はあるんだよ。
 ――多文化主義的観点というと、小野正嗣「九年前の祈り」(「群像」)もそうでしたよね。別れた外国人との間にできた子どもを連れて女性が故郷に帰ってくるという小説です。
▼そうなんだけど、なぜか既視感の方が強い。あえて線引きをすれば冷戦期の想像力でポスト冷戦的な状況を描こうとしているから、後ろ向きな印象を受けてしまうと言えるのでは。悪い小説ではないと思うんだけど。
 ――時事的なことを扱っている小説としては清野栄一「チェルノブイリⅡ」(「新潮」)がありました。「チェルノブイリ」というウェブ上の無法地帯化してしまったバーチャル空間をめぐる小説です。そういえば、この小説の直後に〈対談 中沢新一×東浩紀「原発事故のあと、哲学は可能か」〉が載っていますよね。
▼この小説、その対談とリンクするような話になっているよね。小説で震災後の状況を描くのって、程度の差こそあれアレゴリーにならざるを得なくて、それは必ずしもうまくいくとは限らない。前回取り上げた吉村萬壱『ボラード病』(文藝春秋)みたいに、何でうまくいったかわからないけれどうまくいった例もあるし、小林エリカ『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)みたいに、何というかうまくく失敗した例もある。対して、「チェルノブイリⅡ」は単に失敗することすらできなかったような気がする。それをどう評価するのかは別の問題だけど。
――つづく







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