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評者◆前田和男
若きLGBT人権活動家・尾辻かな子の巻⑪
No.3174 ・ 2014年09月13日
■政治家・尾辻かな子の産みの親、茨木市議桂むつことの出会い
2000年春、大学の最終学年を前にして、尾辻かな子の周辺はにわかに就職活動の時期を迎えていた。尾辻自身は、母親を含めて周囲にカミングアウトをし、限定的ながらも“小世界”を見つけ出して、そこに住み続けるだろうという漠たる印象の延長線上にしか将来を描いていなかったので、自身もとりあえずは同級生と同じように就職しようと考えていた。さらにクローゼットから大きく抜け出て、社会的あるいは政治的な活動の「旗振り役」になろうなどとは思ってもいなかった。 1986年4月の男女雇用均等法施行から10年余、ようやく女性にも総合職というキャリアの道が開けつつあった。実態はともかくとして、生来ガンバリ屋の尾辻には、もしかしたら男並みに働けるかもしれないという期待感があった。新卒といっても年齢的には4年遅れのハンデに不安を覚えながらも、有力な会計系ゼミに所属しているのでそれなりの企業に採用してもらえるだろうと、ユニクロをはじめ幾つかの企業の説明会を受けてエントリーを始めた。 そんななか就活情報を求めて大学構内の掲示板を見に行ったときだった。そこに貼ってあったいささか場違いなポスターが目にとまらなければ、現在の尾辻はなく、キャリアウーマンをめざしてクローゼットを出入りしていたかもしれない。 そのポスターの惹句「政治家はテレビの中の住人ですか」に尾辻はひかれた。それは春休みに政治家(国会議員、地方議員)のもとでインターンとして政治を実感してみようという呼びかけだった。この議員インターンシップの制度は「ドットジェイピー」といい、尾辻が掲示板でその存在を知る2年前の1998年に佐藤大吾という若者が始めたものだ。現在までに約1万人超が参加、その中からは多くの政治家が誕生しているが、当時はその実績・実態もあまりよく知られておらず、尾辻も何となく面白そうだと直感的に思っただけだった。 たしかに政治は必要なんだろうけれどテレビで見るだけの遠い世界。実態がわからない。こんな制度があるのなら、ちょっと現場を覗いてみようか。そっちの世界へ進むための予行演習というのではなく、あくまでも企業への就職を前提に、いわば大学生活を締めくくるにあたっての「良き思い出づくり」ていどの感覚だった。 ドットジェイピーの議員インターン制度は、今でもそうだが、受入れ議員のリストが予め示され、応募者はその中から好みの議員を選んで議員の面接に臨み、採否は議員が決めるという仕組みだ。尾辻が選んだのは、大阪府茨木市の一年生市会議員・桂むつこ、当時30歳だった。互いに一面識もなかった。 桂は性的少数者(LGBT)の課題を直接掲げていたわけではなかったが、「男女平等」「環境」「地方自治」の3つを政策の柱にしており、尾辻は親近感を抱いた。ちなみに尾辻がインターン先に選んだ議員は、桂が優先順位一番だったが、その次は箕面市議の増田京子と尼崎市議の酒井一で、いずれも市民運動系無所属、いわゆる“虹と緑系”に近い人々だった。もちろん当時の尾辻は、彼女たちとその周辺の“政治的な色”を知っていたわけではなかった。まだキャンパスにはかすかに学生運動の残り香があり、その影響を受けた人の中には、“虹と緑系”の運動に関わるものもいたが、尾辻自身はそんな「左翼政治業界の予備知識」も「人脈繋がり」も皆無だった。それを知るのはすいぶん後になってからである。 今も茨木市議として活躍する桂むつこに往時の尾辻との出会いを訊いてみた。 「おとなしいがしっかりしてそうだなあ」が第一印象だった。 桂を少々面食らわせたのは、尾辻から「私は同性愛者で、同性愛者として、政治が何か変わるか見てみたい」といきなりカミングアウトされたことで、当の尾辻自身もなぜか会うなりスラスラと言えたことに我ながら驚いたという。 桂はいささか戸惑いながらも、尾辻の表情と仕種から「しっかり考えて今から何かを一歩踏み出そうとしている落ち着いた情熱みたいなものを強く感じ、ぜひとも一緒に付き合ってみたい」と思った。 LGBT問題について、桂自身もちょうど議会で取り上げたいと考えていた。委員会で同僚議員が関連質問したことはあったかもしれないが、本会議で取り上げられるのはおそらく初めてだった。さっそく尾辻に「調べて質問の草稿までつくって」と言うと、それをベースに質問に臨んだ。尾辻はいきなりの「大役」にびっくりしながらも、それが議員質問という果実に実った感動を、当時つけていた日記にこう記した。 「私にとって一番すごいことは、桂さんが議会でレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどのセクシュアル・マイノリティに対する対応や人権問題を聞いてくれたこと。桂さんの質問で、教育委員会の中にセクシュアル・マイノリティの問題がちゃんと入ることになった」 LGBTの議会質問に限らず、尾辻には感動の連続だった。それが日記には素直に記されている。 「驚いたのは、私たちに対して、議員とインターンシップ生じゃなく、友だちとして接してくれること。自分のことも聞かれたらなんでも話してくれる。懐の深さを感じる。まだ三日しか会ってないとは思えないほど、いろんなことを見せてくれるし、教えてくれる。とても嬉しい」 筆者の知る限り、インターンを受け入れるといっても、実際は電話番か郵便物の整理のような“雑用”にしか使わない議員がほとんどである。ましてやここ一番の本会議質問(地方議員にとっては年に1回巡ってくるかどうかの晴れ舞台である)に“共同作業”をさせることなどまずありえない。それを桂に向けると、こんな答えが返ってきた。 「だとしたらインターンを受け入れるべきじゃない。インターンというからには議員の苦労や苦悩も含めてきちんと伝えてともに悩む、そうしなければインターンをした値打ちもなければ、彼らになんらかの糧も残らない」。桂は尾辻の後にも数年はインターンを受け入れたが、その後は受け入れていない。妊娠・出産・子育てをしながらの議員活動になり、尾辻のときのようにインターンと濃密には付き合えなくなったからだという。逆に言うと、「濃密なだけに関係を続けるには正直、体力もお金もいる。もちろんそれに見合う以上のいろんなエッセンスを私はもらえているのだけれど」。 そんな桂流インターン付き合い法のせいだからだろう、尾辻を含めてこれまで桂が受け入れたインターン十数人のうち3人が政治家になっている(野々上愛高槻市議、佐々木允福岡県田川市議)。 尾辻はまたとない出会いに恵まれた(それも初回で)というべきだろう。後に尾辻は桂を「私の製造物責任者」といっているが、まさに後のLGBT人権活動家・尾辻かな子の産みの親は桂むつこといっていいかもしれない。 (本文敬称略) (つづく) |
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