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評者◆髙橋宏幸
中上健次との距離感――中上健次原作、松井周脚本、松本雄吉演出『19歳のジェイコブ』(@新国立劇場、6月11日~29日)
No.3171 ・ 2014年08月16日




■この作品の上演を、失敗と呼ぶことは簡単だ。たしかに、この上演からは「ちぐはぐ」な印象を拭うことができない。なぜ失敗したのか、それを説明することも容易だ。この作品について、すでに書かれた、もしくはこれから書かれるかもしれない評を予想すると、それらは概して、中上健次原作の小説がもつイメージと、実際に上演された舞台の差によって判断するだろう。つまり、作り手も観る側も含めて、中上の小説がもつ作風のイメージは、すでに確固として築かれている。だから、中上のテーマのひとつ、「路地」という場が舞台ではどのように再現されているのかが問われることになる。
 新国立劇場の企画で、中上健次の『19歳のジェイコブ』を、「サンプル」というユニットを主宰する松井周が脚本にして、「維新派」を主宰する松本雄吉が演出をした。むろん、中上の作品が舞台になることは、今までも何度かやられている。映画もそうだ。実際、演出の松本は自身の劇団である「維新派」で、中上健次の『千年の愉楽』や『奇蹟』をモチーフに、『南風』という作品を上演している。
 ただし、それは今作の演出方法とはまったく違う。かつての作品は、あくまで維新派の作品としてあった。中上の小説はモチーフであり、維新派の独特な形式に、それは入れ込まれて作られていた。壮大なスケール、変拍子の音楽の上で独特の動きをするパフォーマー、そして維新派の抱える一連のテーマとも関係する、大阪という都市空間からこぼれ落ちたものたち。中上の路地から導き出された、大阪の「路地」が舞台上には現れていた。
 今作の『19歳のジェイコブ』の上演は、意図的にわれわれが既成概念としてもっている、そのような中上のイメージを変えようとする。確かに原作の小説自体が、血統や路地を前面において書かれた、それまでの三部作『岬』、『枯木灘』、『地の果て至上の時』から離れて、むしろ初期の『19歳の地図』のような若者の理由なき衝動としての欲動と、路地というテーマが混じり合っている。
 だから、松本雄吉と松井周がパンフレットの対談で語るように、「路地」のみに終始しない、あえて「ちぐはぐ」な舞台を作ろうとしたのだろう。そして、それはたしかに「ちぐはぐ」となった。ときにエロティックな描写シーンがあったりもするが、全体を通して荒々しく猛るような肉体があるわけではない。舞台もときに均整がとれて、練られた美術や照明が映し出す空間が作られているが、俳優の身体性とどのように交わっているのか、維新派の舞台から翻って考えると、たんにバランスの悪さを感じてしまう。また、中上のもう一つの象徴的な側面であるジャズが音楽として鳴り響くが、それが舞台を通して持続される軸となることはない。脚本も、そうだ。血統や土着、エロスといった生々しい人間の衝動は、「サンプル」での松井の作品の方がよほどある。
 だから、「ちぐはぐ」が、たとえ狙いであったとしても、ではなぜ「ちぐはぐ」にしたのか、それによってなにを見せようとしたのか、ということが問われるはずだ。路地や血統から多少距離をとっても、中上という磁場のなかで、いくつもの中上らしきものを回遊するだけならば、意味はない。少なくとも、離れるとするならば、もっと遠く離れるべきではなかったのか。それが、通俗的な中上のモチーフである、ややもすると手垢にまみれた「路地」をこえて、現在にもたしかに存在する、新たなる「路地」を考えることになる。
 もしかすると、そろそろ、あえて中上をいったん忘却するときが、文学においても、他の芸術ジャンルにおいても来ているのではないか。再び新しい中上を見いだすために。








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