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評者◆前田和男
若きLGBT人権活動家――尾辻かな子の巻⑤
No.3167 ・ 2014年07月19日
■高校を終えると、「自分は何者か」という心の中にわだかまるもやもやはそのままにして、大学に進学することにした。
「空手アジアナンバーワン」の実績なら、推薦で入れる大学もあったろうが、大学で空手をやるつもりはなかった。とりあえず環境を学んでみようと思った。 高校2年の1992年、リオディジャネイロで地球環境サミットが開催された。1年生のときクラス担任だった物理の先生からアドバイスを受け、文化祭で「地球温暖化」のパネル展示をしたのがきっかけで、環境問題に興味を覚えたからだった。しかし、あまり深く考えたわけではない。 千葉大学の園芸学部を受けたが不合格。浪人を覚悟したが後期で高知大学農学部森林科学科に合格。母親から国立大学だし行っておけと勧められ、「不本意入学」した。 下宿はせず学生寮に入った。共同生活するなかで、「違和感」を強く意識するようになった。高知は特に遊ぶ場所もないこともあり、受験勉強が終わった解放感から恋愛活動が活発だった。男性から恋愛対象で見られるとなんとも居心地が悪い。いっぽうで何となく心惹かれる女性はいたが、同性に対して恋愛感情を抱いてはいけないと思って封印した。 誰に相談していいのかわからずにモヤモヤばかりが募るなか、ようやく大学の図書館でジェンダー論に出合う。それを読んで幼少年期からの「違和感」のナゾの一端が解けた気がした。兄と年子だったため、何かにつけ、「兄はいいけどあなたは女の子だからこうしなさい」と言われ、それに納得できなかったのは、女性に対する役割分担への自分なりの反発だったのだと理解できた。そして、小学校の卒業式の苦いエピソードが思い出された。 前述したように、小学校最終学年はズボン通学で通したが、卒業式ぐらいは“女性の正装の”スカートにしなさいと母親に説得され、渋々従った。それがクラスメートの注目の的になり、「尾辻がスカートをはいている」と冷やかされ、これに対して、「珍しいやろ。ちゃんと記念に写真撮っといてや。貴重な写真やで」と精一杯おどけてその場を取り繕ったのだった。 しかし、それでもまだ未解決の「問い」は残った。自分はいったい何者なのか? もしかしたら女性が好きなのかもしれない。しかし、インターネットも普及していない時代で、調べる術がない。このまま片田舎の高知にいたら永遠に確かめられないのではないかと不安に駆られて、思いきって大学を辞めることにした。 国公立なので休学しても授業料がかからない。親には「経済的負担はかけないから1年休学させて」と言って、2年生の4月に神戸に戻った。ここまではエスカレーターで来たので、「ちょっと一服して自分探しでもするのだろう」と勝手に受け取ったのか、家族はなにも聞いてこなかった。母親の孝子は、娘の内面でそんなことが起きているとはまったく気づいていなかったという。 神戸に戻ったものの、「自分が何者か」の手掛りはさっぱりつかめなかった。さっそくはじめた神戸市役所前の吉野家のアルバイトも、その後の店も、知らず知らずのうちに制服がスカートでないところを選んでいた。それが根本のところで何を意味しているのか、どうすればいいのかの「正解」は見つけられないでいたところに阪神・淡路大震災が起きた。 バイト先の三宮駅前は神戸新聞社屋や百貨店のビルが倒壊。母親の出身地の長田界隈も灰燼に帰した。地震発生がもう少し遅れていたら、自分も死んでいたかもしれない。人生いつ終わるかわからない。やはり悔いなく生きなければと思い、やり残したことはなにかと自問した。すると、「そうだ、オリンピックに行きたかったじゃないか」と内なる声が叫んだ。 空手はオリンピック競技ではないが、1988年のソウル・オリンピックからテコンドーなるものがエキシビジョン(公開競技)になって、それは空手に似ているらしい、これなら何とかなるかもしれないと神戸の道場へ通い始めた。しかし、今から考えると、これもまた高校時代の空手と同じで、本来探さなければならないものからの「一時逃避」だったかもしれない。 空手の経験からこのまま日本の道場に通っていてもオリンピック出場は無理と判断、師範の紹介で本場韓国で勉強しながらテコンドーの練習に集中することにした。資金は、震災の瓦礫を焼却炉に運ぶパッカー車を誘導するガードマンの仕事をして貯めた。これまた吉野家と同じくスカートをはかなくていい仕事だった。 震災から3か月後の1995年4月、韓国へ渡った。9カ月間滞在し、ソウル大学附属語学研修所で学びながらテコンドーの技を磨いた。韓国語は流暢ではないが今も日常会話ならできるし、新聞も大意はわかる。折しも、終戦50年、当地では日本の植民地支配から解放された光復50周年に沸いていた。竹島(韓国呼称は「独島」)の領有権や日本海の表記問題(同「東海」)が火を噴いていた。日本から見た歴史と韓国から見た歴史はこんなにも違うのかと身をもって驚かされた。政治に深く関心をもつきっかけにはなったが、まだ自分がそれを変えてやろうとまでは思わなかった。そもそも自分にそういう能力があるとも思えなかった。 韓国から帰ってきて神戸の道場に通ってオリンピックをめざした。1999年、翌年の第27回シドニー五輪に向けて日本代表選考競技会が行われたが、決勝まで進んだものの、この時は「運」が働かず、オリンピック出場の夢は断たれた。 (文中敬称略) (つづく) |
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