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評者◆小野沢稔彦
戦後日本を問う映画。その戦後の虚妄を暴く映画――大宮浩一監督『石川文洋を旅する』、大浦信行監督『靖国・地霊・天皇』を観る
No.3166 ・ 2014年07月12日




■異様なスピードで進行するファシズム情況に流されることなく、ともかく立ち停り、この時代とは何か、を考える二本のドキュメンタリーを観た。『石川文洋を旅する』(大宮浩一監督)であり、『靖国・地霊・天皇』(大浦信行監督)である。二本の映画とも壊憲=原発国家、つまり「戦争をする国」への意思表示を行う、この国の現在の根底に〈戦前=戦後史〉の持続の中の剔抉されざる問題があることを見つめ、その課題といかに向き合うかを問う、きわめて刺激的なドキュメンタリーである。二本は「ポレポレ東中野」で連続上映される。このプログラミングの意味は大きい。映画館の存在理由!!
 まず『石川文洋を旅する』だが、一言で言って「戦後民主主義」の時代を、その民主主義を体現しつつ生きた「戦後民主主義の人」たる写真家(写真という装置も、フリー従軍記者という装置も戦後民主主義的である)・石川文洋に密着し――特に彼が戦場カメラマンとして世に知られることになったベトナム戦争の激戦地を今日訪れる旅に同行することを中心に――、ベトナム戦争時(彼を彼にした写真に表象される)と今日を相互に見つめながら、彼の裡に体現される「戦後民主主義」とは何であったか、を映画は正面から問おうとする。そしてその戦争の渦中で沖縄出身の米軍兵士と出会い、沖縄に生をうけた石川が彼の沖縄をどのように発見し、どう背負い、やがて今日の沖縄にどんな目を向けているかをも、彼の軌跡の中に見つめるのである。
 しかし問題は、戦後民主主義という幻想は――端からそれは空虚のままにあった――、戦後という時間の裡にあって一度も現実化されたことなどなく、良心的平和願望者の空想でしかない。しかし、その虚構を現実として生きようとする観念が石川を形成し――更に私的な戦後的成長の物語が貼りついてある――、その物語が戦争カメラマンという(彼の主観とは別の)両義的で曖昧なアンビバレンツな存在として、まさしく戦後日本そのものの代行=表象するものとしてあることを映画は浮上させる。そして戦後日本そのままに、彼はその理念を〈戦場〉の中で平和への願望を視つめ、戦場に生きる総ての人間を「人」として見事に切り撮るのである。その写真はやがて、戦後平和理念と結び合い、ベトナム反戦運動(戦後平和運動の大きな高まり)の強力な一翼を担う。こうして彼は戦後の「平和日本」と「民主主義」を体現し、その伝道師としてあることになる。
 以下、枚数の関係で私が思う問題点のみを――私はこの映画が秀作であると思っているのだが――箇条書きにまとめておく(なぜなら大宮の次作に更に期待したいからだ)。
 (1)ベトナム戦の渦中に、石川はウムナンチュノ兵士に出会い――ここにも、ある成長の物語がある――、そこで彼が忘れていたアイデンティティである〈沖縄〉に正面から向き合うことになるのだが、このアメリカに同一性を求め帝国アメリカの先兵として民衆を殺し、自身も死亡する兵士の軌跡の中に、植民地主義(日本)の幻想の中で侵略戦争を担うことに希望を見出した沖縄の人々の姿が重なっている。帝国日本に主観的に救いを見い出し従属し、戦後は帝国アメリカの植民地幻想に同一化する。この二つの植民地主義仕掛けの心性とイメージ戦略への批判的視点は映画では欠落しており、まして大宮に求められる、石川への密着の中で要求される対象に対する批判の眼は決定的に欠落していることを指摘しておこう。同時に日本と天皇から(戦前も戦後も)切り棄てられた沖縄にとっての〈天皇制〉と、持続する戦後民主主義をも覆うヤマトにおける天皇制への視点はまったくない。戦後民主主義(=連続する天皇制国家)の底にあり続ける、この見えざる構造を視る映画を構想すべしだ。
 (2)映画の中で石川の定時制高校時代の友人との交流シーンが微笑ましく挿入されるが、そこには、ここに集まることの出来なかった多くの「落ち零れ」への――集まったのは成長の物語を生きた人々だ――想像力が決定的に欠如している。定高生の中で、その多くが落ち零れた現実こそが〈民主主義〉の内実なのであり、多くの李珍宇や永山則夫……が定時制にはいるのだ。膨大なドロップアウトした定高生の現実こそが〈戦後〉である。ドキュメンタリーにこそ、不在の人間や視えない出来事への想像力が要求される。
 (3)流行りのNHK仕掛けの観る者を排除する編集方法を無批判に使うべきではない。映画には繋辞がなく、カットとカットを繋ぐのは観る者の想像力だという映画を映画たらしめる基本を抹殺してはいけない――このことは昨今の若いドキュメンタリー制作者の総てについても言えることだが。
 そしてもう一本の『靖国・地霊・天皇』であるが、この映画はそうした戦後民主主義の虚妄、戦後民主主義とは戦争責任=戦後責任を問うことを巧妙に回避し、その〈無責任体系〉の上に、更に〈3・11〉後に、より明白になった原発=原爆体制を維持、持続する新しい「戦争国家」としてアメリカの先兵となって侵略戦争を行うことを明らかにするこの国の、その無責任体系の現実が「象徴」という曖昧で不分明な呪縛体系であり、護持された〈天皇制〉としてあり、その天皇制の下での内外の「戦死者」を天皇の防人として〈追悼〉する装置としての「靖国」であること、そしてまた、そのシステムに取り込まれ、同時にそれを担い、自らの意志によってこの天皇制国家に喜々として生きる〈ニッポン国民〉の心的構造を暴き出し撃とうとする圧倒的に衝撃的な映画として、この映画はあるのだ。おそらく『石川文洋を旅する』と連続して観るなら、いかにこの『靖国・地霊・天皇』が日本への根底的批判の力を持っているかがよく判るはずである。
 まず、靖国裁判をめぐるまったく対立する二人の弁護士、大口昭彦と徳永信一のインタビュー――それを映画では対峙的に編集する――が明らかにすることは、しかし両
者の発言の内実がともに天皇制の影に呑み込まれかねないところにあり、法理論的に明晰であろうとする大口さえ取り込まれかねない天皇制の深い闇を感知させられる。大口がどう法論理を論証的に重ねようと――弁護士はそこに生きるしかない――「象徴天皇」に関わる地平においては、天皇というその存在の無規定性において、その憲法第一条第一項の曖昧さによって、ついに天皇制と靖国とを「法」論理で規定し、その存在とあり様を審くことの困難さが虚しく表出されるのだ。それに対し右翼弁護士・徳永信一は、端から法理論など無視し――法の真っ当な運動など彼は意図しない――、徹頭徹尾ただアプリオリに「日本人」という(そのことがどんなことかなど問題にされない)特別な存在を前提とする〈情緒〉のみが語られ――その情緒の言葉は十数年前の加藤典洋の言説と似ている――、彼の裡では憲法は勿論のこと、法も超越して「日本人〓」とそれに関わる「情緒」のみがあり、その無論理の言説がタレ流される――弁護士である彼はこの情感は「法」を超越しているとさえ主張する。ここでは、端から裁判など成立しようがないのである。
 この虚しいとしか言いようのない向き合いの奥、あるいは無論理の闇にあるのが〈天皇〉と〈天皇制〉であり、この底知れぬ闇の前に、私たちはひれ伏すしかないという徳永の主張と同様に、韓国で行われたアジアの靖国関係者と東条由布子(英機の孫)との、まったく噛み合わぬ論争の中でも、ひたすらに論理的であろうとする韓国・台湾の人とただ情緒の中に歴史的現実の全てを解消しようとする東条との、この埋め難い裂け目の奥にも天皇の影は重くのし掛かる。天皇制の呪縛装置は今もアジアを覆い、この国の戦後史のアポリアであり続けている。
 さてこのアジアの関係者の論争は、現実の映像による引用ではなく(多分、著作権問題かなにかの関係で?)、映像も音声も用いられることはなく、スーパーインポーズによって表示されるのだが、大浦のとったこの方法は――強いられた結果かもしれないが――卓抜であり、現在の課題が鮮明に浮上し、私には刺激的であった――映画の方法をどうするかを考えることは映画にとって重要である。
 この映画が表象することは、靖国の奥深くにわだかまり、さ迷い続ける様々な地霊を抑圧しつつ、私たちを突き動かす、私たちに見えない象徴体系たる天皇制とその闇の中に、その死者を追悼するための装置「靖国」があり、その根拠は法規定されることなく、あたかも存在しないようにありながら無形の強制力として私たちを呪縛し続ける〈天皇制〉の闇をこそ表象するのだ。
 その見えざる象徴的時空に対し、大浦がその対峙存在として提出するのが在日二世(ポリオによる身体障害者)――二重三重にこの国に他者である――の大阪の身障者劇団「態変」を主宰する金満里であり、大浦自身がかつて天皇国家日本を表象するために描いた『遠近を抱えて』連作――こちらも国家から放逐された――の引用である。
 この絶対に責任をとることのない無責任国家に対峙する〈肉体〉と〈画〉とは、ここでの様々な言説の虚しさや現実の靖国のなんとも空々しい虚無の空間を異化し、圧倒的にこの国の闇と向き合う。特に金満里の存在性の、ほとんど異形とも思えるあり様は衝撃的であり――私はその存在は聞いていたが実際にこの映画で観て圧倒された――その存在性が靖国の鳥居の前や二重橋を前にして虚空に対峙する時、ついに様々な虚しい論争や審判を超えて、何かが始まりつつあることが実感させられる。金満里の肉体は日本国家と天皇制と、それを支える私たちを相対化する。この金の存在を見て衝撃を受けない者はいないだろう。とにかくこの映画を観てほしい。
 最後に、大浦の次なる映画への希望を。もうこの国の虚しい論争への関わりではなく、それを圧倒し、異化する抱腹絶倒の大喜劇を作ること――金満里と大浦の作品を活用し――を期待する。そして制作者・葛西峰雄よ、次も頑張れ!

『石川文洋を旅する』は、ポレポレ東中野ほか全国順次公開中。
『靖国・地霊・天皇』は、7月19日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開。







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