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評者◆倉石一郎
リンダ・ブラウンが歩いた道から
No.3165 ・ 2014年07月05日
■グレイハウンドに初めて乗った。ローレンスというカンザス州きっての大学町で一仕事終え、ブラウン判決記念日に備え州都トピカに戻ってくるときのことだ。私がこの長距離路線バスに乗ったのはわずか三〇分ほどの区間だったが、行き先標示はテキサス州ダラスになっていた。車内はなんだかすえた臭いが充満し、床にはスナック菓子の残がいが散らかっていた。空港ではあまり見かけず、ましてやマディソンやローレンスのような大学町ではまずお目にかからない風体のお客さんに「もう一つのアメリカ」をかいま見た。バスははるか一二時間かかる目的地を目指して走り去った。
数日ぶりに戻ってきたトピカの町は厳戒態勢だった。ミシェル・オバマが高校の卒業式にやってきて、ブラウン判決六〇周年の記念スピーチをする、という情報に私が接したのはほんの数日前のことだった。翌日訪ねる予定のブラウン判決記念館(旧小学校舎を転用)をちょっと下見に行きたかったが、ホテルのすぐ横のコンベンションセンターが式の会場ということで警備が大変ものものしく、記念館へ通じる道はパトカーで封鎖されていた。雨も降ってきたのでこの日は町歩きはあきらめ、ホテルでゆっくりした。 ミシェル・オバマ来訪は地元にとって大ニュースのようで、あちこちのニュース番組で伝えられていた。動画サイトにもほどなく、彼女の二〇分間の全スピーチがアップされたのだが、これが実にソウルフルで感銘を受けた。日本における公人のスピーチのような当たり障りのない話ではなく、それは実に挑戦的で挑発的な内容だった。まず、学校での人種分離を違憲としたブラウン判決の意義を確認したあと、返す刀でアメリカの学校の現状はどうかと問う。多くの学区は人種統合の努力を放棄し、人種による住み分けが徹底する中で、今のアメリカの多くの子どもたちは、自分と同質的な仲間ばかりがいる学校に通っている。この状況はまるで人種隔離時代に戻ったかのようだ。一見すると人種統合されている学校でも、よく目をこらしてみるがよい。ランチのテーブルには似たもの同士が固まって座り、人種のラインに沿ったコース分けがなされ、クラブや生徒活動も別々に行なわれていないか。そしてこの状況は、学校の壁を越えて社会全体に蔓延している。だから「ブラウン判決は歴史に対してだけでなく、われわれの未来に関わるものでもある。それは六〇年前に下された判決だが、今なお、それは下され続けてもいるのだ――法廷ではなく、われわれの生活の中で」。動画にはプロンプターがしっかり映っているから、彼女はむろん、予め用意された原稿を読んでいるのだろう。しかしあたかも心の底から湧いてきた言葉であるかのように、聞かせるスピーチであった。それは、大学町の雰囲気に慣れ親しみ、グレイハウンド・バスの車内に違和感をおぼえた私自身に迫ってくるものでもあった。 五月一七日土曜日のトピカは、要人も去って緊張が解け、気持ちのいい快晴だった。六〇周年記念日のこの日、記念館で特別企画としてレガシーウォークという行事が行なわれた。リンダ・ブラウンが二年間通うことを強いられたモンロー校跡地(記念館)から、彼女の自宅のすぐそばにあった白人学校サムナー校舎跡までの約二キロの道のりを歩くという企画である(上写真参照)。記念館のスタッフが先導し、ところどころで立ち止まって説明を受けながらの楽しい行程であった。途中、ぞろぞろ歩いているわれわれのそばに白バイが寄せてきて、何事かと尋ねていた。顔は笑っていたのでそんなに深刻に考えてはいなかったと思うが、何かのデモのように見えたのかもしれない。一時間ちょっとの行程を終え、サムナー校に着くとお揃いのTシャツを着たスタッフが待機していた。興味深かったのは、「オーラルヒストリープロジェクト」のテントが用意されていたことで、自分にとってブラウンとは何なのかを参加者が語り、それを記録するという趣向だ。私は、ブラウン家の旧所在地とリンダが毎日通学に使ったバス停の位置をスタッフに尋ね、教えてもらった情報を手がかりにまた一人、とぼとぼと歩き出した。 人類の歴史に永遠に名を残したブラウン一家だが、その状況は当時の黒人家族が置かれた「典型的」なものとは少し違う。一家が住んだエリアは人種混合地域だったし、この裁判で名が知られたことで近隣から嫌がらせや暴行を受けたという記録はない(ただ、オリバー氏が牧師の仕事を得たため判決直後に一家はミズーリ州に転居した)。またリンダが通った市内に四校ある黒人学校の一つモンロー校は、校舎の造りも堅牢だし、優れた教員を集め進歩的な教育を行っていたという。だがブラウンのケースと一括して審理されたサウス・カロライナ州の事案では、黒人学校は校舎もボロボロ、教員の質やカリキュラムも劣り、スクールバスはサービスされていなかった。黒人生徒たちはリンダが歩いたよりももっと悪路を、延々と歩いていたのだ。(以下続く) |
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