書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆秋竜山
逃げられた岡倉天心、の巻
No.3157 ・ 2014年05月03日




■福原義春『美――「見えないものをみる」ということ』(PHP新書、本体七六〇円)の〈見えないものを五感で感じる〉という項目。読みながら、笑った。この笑いはいったい何だ。岡倉天心といえば、無言劇のような人物のイメージがある。おしゃべりではないような。めったに口などきかないような。イメージというものは勝手である。こっちで、勝手につくり上げてしまう。岡倉天心は日本人中の日本人のようなイメージをも持たせてくれる。横山大観や菱田春草という日本画の大天才を育てたことが有名である。本書には、その天心が、どのような日本画を創ろうとしたか、短い文章でわかりやすく書かれてあった。私が思わず笑ってしまったのは、
 〈天心が直接プロデュースした芸術家といえば、横山大観と、早逝した菱田春草である。その二人以外はどうやら天心のもとから逃げてしまったらしいのだが、大観と春草だけは天心の思想についていき、新しい日本画を創ろうとした。〉(本書より)
 この文章のどこで笑ってしまったかというと。文章というものは、ちょっとしたことで笑いをさそってしまうものだと、つくづく思った。笑わせてしまう力を持っている。いや、もしかすると、笑ったなんていうのは私だけかもしれない、けど。〈その二人以外はどうやら天心のもとから逃げてしまったらしいのだが、〉と、いう部分である。逃げたという表現だ。立ち去った、なんて書かれてあったら笑いはおこらなかっただろう。逃げてしまったらしい、という表現が、そんなに笑えるのか、といわれれば、それを説明したとしても「そのどこが可笑しいんだ!!」と、いわれてしまいそうだ。逃げられた天心。その時、天心は逃げられたと思っただろうか。残った大観と春草は、みんな逃げてしまった!!と、思っただろうか。そんなことを考えると、一幕物の舞台を観ているような、明治という時代の芸術ドラマのようにも思えてくる。これだけの内容のものだから、今まで舞台化されていないこともあるまい。元来、芸術というものは客観的にみると、喜劇のようなものである。芸術というと、わかるものにはわかるが、わからないものにはサッパリわからないという世界だ。天心は、
 〈本当の日本画を現代で創ろうではないかと志したのだった。〉(本書より)
 天心は、明治、大正期というまさに新しい日本の夜明け前という、チャンスともいえるいい時代に生きたといわねばなるまい。この時代にこの人あり、という時代の人物である。
 〈さらに俳句についても、単なる写生句はよくないとし、名作を模してはならないといっていた。自然を模して描くことも意味のないこととした。あるときは学生たちに、「名月を題にして月は描かせない」という勉強をさせたという。天心の考えでは、自然を真似してもしようがないのだ。自然と人間が対峙したときに、そこから魂の中に何かが生まれることが大事なのだとした。〉(本書より)
 五感で感じとるということである。大観と春草は、逃げなかった。そして、今日では天心を知らなくても横山大観といったら、絵は知らないが大観だけは知っているという日本画家の代名詞のようになった。日本画といったら、にぎり寿司の絵は日本画で描いたのを食べてみたい。油絵の寿司は油っこい寿司ということか。オバマ大統領は、やっぱり日本画の寿司か。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約