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評者◆小野沢稔彦
国家が映画を作り、映画が国家を作る――ジョシュア・オッペンハイマー監督『アクト・オブ・キリング』
No.3155 ・ 2014年04月19日




■この映画の主演アクターたちは、ハリウッド映画を始めとする多くの映画を観、それと同化し、それを模倣することによって、彼らの殺人ゲームとその方法を編み出し、映画を真似て、自らの映画を運動としたのである。映画への愛が、巨大な殺人ゲームを産んだのだ。まずこのことを確認しよう。
 政治が映画を作る。そして映画が政治を作る。政治とは当然のことながら国家=国民と同意である。このことをこれ程あからさまに表象した〈映画〉は少ない。映画は、どんな国家においても、どんな時代においても国家=映画であるが、通常表面的にはそのことを露出させないことを旨として、私たちの前に現前する。しかし、この『アクト・オブ・キリング』(殺人行為についての報告とでも言えばよいのか)では、誇らかに〈政治=映画〉であることが称揚され、映画が国家を作ることが正面から打ち出される。つまり映画が国家を作り、国家が映画を作ることが映画の現実性として全面的に展開され、そういう映画として私たちの前に突きつけられるのである。
 だから観る者は、この現実の前にほとんどたじろぐように――なぜならこれまでの映画はそのことから遠く離れた風を装って、ロマンを語り、抒情の世界を謳うことを前提としてきたのだから――この映画の前に立つことになる。しかしここで私は、映画=国家、国家=映画であることこそが映画なのであり、そのことを真っ正面から表象したことこそが、この『アクト・オブ・キリング』という映画の最大の問題提起であることを言っておこう――ここで表出されるあらゆる暴力的シーンそれ自体は、多くの映画でくり返され、そして現実としてこの映画で模倣され、映画としてくり返され、実体となって適用されたのだ。
 さて本作は、65年の――それまでA・A・LA、つまり帝国主義植民地であった国家が第二次大戦後独立し、その軛から脱出し、植民地時代とはまったく違った反植民地主義的平和国家を創出し、その諸国家が非同盟連合を結成し、その主導的位置にあったインドネシアにおいて(私を含め、当時の日本の左翼陣営は、この非同盟諸国の連帯を手ばなしで称讃していた)――9月30日に起こったインドネシアクーデター(反革命)の現実的な当事者(実行者)たちが、その革命(彼らにとっては紛れもなく光栄ある革命であり、彼らはその戦士である)の歴史への加担とそれを担った心性とその実際行動とを、今日(現国家下)の時点で自ら回想し、自らで再演してみることを通して――そしてその過程そのものを映画とすることを企図し――その政治的内実を寿ごうとする映画として、きわめて刺激的で多様な問題性を孕む問題作なのである。
 ここには、当時スカルノ体制(軍・共産党・イスラムのトライアングルという奇妙な政体)を支えていた三者の裡の現実的強権力であった軍の手先として跋扈し、クーデターの第一線において、主に共産党の暴力的絶滅行動を行った様々なゴロツキ・チンピラたち(日帝をみるまでもなく常に国家はその暴力装置の手先としてゴロツキ暴力団を活用する)によって強行された徹底的な暴力行為を、その当事者が再現することによって、350万人とも言われた、当時世界最大の党員数を誇った共産党を殲滅した、その暴力発動をこれでもかと再現し表象するものとしてあるのである。
 その上に、今日の――そのゴロツキたちは、現在のインドネシア国家中枢を形成する紛れもなく体制そのものとして存在する――平和なインドネシア国家は成立したのだけれども、ではこの「異常な例外的」なアクトオブキリングが今日の世界の中で例外的状況であるかと言えば、それはまったく違う。だから当事者が自らの暴力行為を演ずることを表象するという、あまり表面に出されることのない情況と、その暴力の観る者にとっての残酷性のみをあげつらっても始まらない。西欧近代国家体制の成立以降、あらゆる地域で近代国家はその国家形成の現実性として、その内部に存在する異質な存在を抹殺する、内へと向かう殺戮、つまりアクトオブキリングの発動を行い続けてきたのであって、その集団的暴力発動の上に近代国家は成り立っているのである。あえて言えば、国家とは殺戮の享楽を見せびらかすことを媒介に成立する共同性なのである。特に旧来のあらゆる植民地国家は、その植民地において圧倒的な暴力支配を行い、その支配システムを貫徹してきたのであり、その支配制度そのものを学んだ独立した被植民地(ポスト植民地)の国家主義者は、彼らが学んだ暴力体系を再生産し、活用するのである。暴力性に育まれた被植民地独立国家の暴力機構(植民地主義が作った)は、更に深く国家の方法として、徹底的にその暴力を活用する――そしてその暴力性こそが国家の本質であるのだ。
 そしてこの映画では、自らがその国家の内実たる暴力性を映画として再演することを意図的に行うことによって、当事者は自らを再確認し、国家と国民との同一性を見出そうとする。そしてポストコロニアルな情況の中で「独立」した国家にとっては、コロニアルな被支配の内実を意図的に再演することによって、ポストコロニアルな国家は西欧的な幻想としての共同体(=国家)へと、初めて自らを突出することが可能となるのだ。したがってここで演ぜられる――映画として表象される――あらゆる暴力・レイプ・殺人遊戯……など暴力の総体は、現実的に暴力に曝され続けてきた被植民地国家が西欧的な幻想共同体に飛躍するための〈通過儀礼〉としてあるのだ。それがインドネシアにおいてはコミュニスト(世界最大の人員を持ちあらゆる特権を享受する)への憎悪を媒介とし(時に、それが異質な宗教や少数民族などの周縁性の排除に向かう)、国内矛盾の突破口として発動されたのである。そしてその発動の意志を何より表象するのが、近代社会の申し子〈映画〉なのであって、この『アクト・オブ・キリング』においては、それはインドネシア革命を表象するものとしてあり、自らを映画として再確認することは、当事者にとってインドネシア〈国民〉として自らを再編するために必要なことなのである。そして映画として観られることが。
 だからこそ、この映画では一貫して、仄めかされながら、イスラム世界のタブーたる(コミュニストは敵だが)ホモセクシュアルな関係性はついに映画の中心課題となることはなく――ホモソーシャルな関係性は、その男系社会を支える強力な紐帯として強調される(日本のヤクザ映画と同じく)――曖昧なまま映画の中を浮遊するのだ。そして確固とした父権性社会はあらゆる国家組織の中心に位置づけられる。映画が表象する国家はどんなところにおいても父権的・男権的社会としてしかありえない。9・30クーデターは女性性社会を徹底的にレイプし男権社会を成立させる。映画こそ、紛れもなく支配的国家の表象であるのだ。
 かつて大島渚は、その鋭い感性によって「敗者は映像(イメージ)を持たない」(映像=歴史を持つのは勝者のみである)と映像について喝破したが、まさに国家を簒奪し、自らに似せて国家を作り上げる勝者のみが、その自らのイメージを作るのであり、その歴史=国家そのもののイメージとして映像は提出されるのだ。自らで自らを演ずることはそういうことなのであり、そのことが映像の現実であるだろう。しかし、映画という「運動」とは、その勝者の映像そのものを解体する運動としてもあるだろう。そして、この映画の監督・オッペンハイマーたちが、では大島がそのことを全面的に確認した上で行おうとしたように、そのイメージそのものを反転させたかについては、残念ながら疑念を持たざるをえない。私はその現実を受け入れたにすぎないと思う。ここにある国家を表象するのと、あるべき共同体を幻視するのとは決定的に異なる。オッペンハイマーたちはただ、勝者の映像運動――彼らが仕掛けたにもかかわらず――の中で、その現実に彼ら自身が取り込まれ、その映像に狂喜し、現にある国家当事者の国家形成との共同行動をとることとなってしまったのである。彼らはそこで生成されるイメージを疑い、反転し、映像的批判を行うことなしに、自らが作り出したイメージそのものに取り込まれ、そこに見事に同一性を見出したのである。自らを演ずる当事者が、自らのイメージにいささか自己矛盾を感じ映画の最後に自らに嘔吐しても、そのことにさえオッペンハイマーたちは酔っている。その限りで、作り手たちは輻輳する映像の現実性に向き合っているとは言い難い(プロデューサー・ヘルツォークの撮った『小人の王国』に比しても)。このこともまた、問われるべき映画の現実性の問題である。
 予定枚数をはるかにオーバーしている。一点だけ追加的に書いておこう。この映画には、あれだけの勢力を誇った(と私たちは思っていた)インドネシア共産党が、まったく抵抗すら行うことなく、なぜ無惨に解体していったのかについては一切問われてはいない。抵抗の問題は今日重要な課題であるのになぜか(日共「解放軍規定」を憶い出しておこう)。
 特に、この暴力的反革命が戦後日本資本主義の海外再侵略(戦争賠償という)の渦中で起こり、強力なCIAの指導と日本の有形無形の支持の下で強行されたものでありながら、そうした世界戦略の中での反革命という視点が欠落しているのはなぜか。当事者たちは、自らでそのことを問うことなどありえない。確かにこうしたことまでこの映画に望むことは高望みかもしれない。ならば戦前の植民地侵略から戦後賠償期を経てポスト植民地世界の戦後過程にまで、一貫して民衆収奪を続けてきた日本の映像(政治)責任において、この日本で日本のその侵略過程を――そこに深く関わった、例えばデヴィ・スカルノを使って――、スカルノ体制と日本とCIAの内部関係を暴く映画が生まれてもよいのではないか。
 それにしても、映画=政治を正面から問うこの映画には、次々と多くの悪役面をした役者たちが登場する。この国の軟弱な役者たちの映像(政治)しか観ることのない私たちに、この『アクト・オブ・キリング』は様々に映画という政治性を考えさせる映画である。映画の持つ力はあなどれないのだ。

『アクト・オブ・キリング』は、4月12日(土)より、シアター・イメージフォーラム他にて全国順次公開。







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