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評者◆池田雄一
意識の流れから電流へ!
No.3154 ・ 2014年04月12日
――先日、大西巨人氏が亡くなりました。
▼自分らの世代だと、大西巨人は同時代の作家だったんだよね。たしか『神聖喜劇』が「新日本文学」で連載されたのは一九六〇年から一九七〇年にかけてなんだけど、本の刊行が完結したのが一九八〇年なんだよね。連載と、刊行される時期にずれがある。本として刊行されたら、日本は八〇年代に突入していた。その間に、文学は村上龍の登場などに象徴されるような形でギルド制が崩壊しつつあった。そうした状況のなかで、大西巨人は再発見されたんだ。 つまり資本による脱コード化の動きの結果として社会が液状化しているなかで、液状化されていないものが再発見された、というのが八〇年代の大西巨人だった。砂浜で、でかい岩を発見したみたいな感じだよね。結果として、阿部和重のようにセゾン文化と『神聖喜劇』が矛盾することなく同居しているような状況があったのでは。 その一方で、大西巨人は九〇年代にも鎌田哲哉からロスジェネへと至る世代によってまた再発見されている。これは八〇年代の再発見とは文脈がちがう。九〇年代のやつは、『神聖喜劇』の舞台である軍隊と、バイト先の飲食チェーン店とが変わりないような状況が生まれつつあるなかでの再発見だと思う。閉鎖された状況のなか、生きるに値しない生を生きるために自分を機械へと鍛えあげるというモチーフは、現代のサブカルにおいても反復されている。そういう意味では、『神聖喜劇』はソリッドステイト系の草分けなんだよね。 ――ソリッドステイト系って何ですか。 ▼ひとことでいうと『バトルロワイヤル』みたいなやつ。いきなり人工的な空間に押し込められて、ホッブズ的な殺しあいの状況を生き抜くハメになるような話のことだよね。あるいは互いに殺しあうんではなくて、敵がなぜか抽象的な場合もある。最近だと『進撃の巨人』とかもそうでしょう。すごいよね。あんなに気持ちの悪い漫画が、あれだけ大衆的な支持を得るんだから。 『神聖喜劇』の主人公である東堂太郎は、軍規を記憶することに特化したサイボーグのような存在になることによって、逆にヒューマンであらざるをえないような存在だよね。そういったサイボーグ化する身体の主題って、八〇年代に反復されていたような気がする。一九八五年にはダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」が発表されてその翻訳が九一年にでたんだけど、それ以外にも、柄谷行人の『隠喩としての建築』なんかも機械化する身体というモチーフの系譜に入るんじゃないか。八〇年代の大西巨人の再発見は、そうした文脈におかれたものでもあったんじゃない。 ――そういえば、カルチュラル・スタディーズの祖とも言えるスチュアート・ホールも亡くなりましたね。 ▼スチュアート・ホールが活躍した時期ってサッチャーが新自由主義を開始した時期と重なるでしょう。サッチャーの言葉で「社会は存在しない」というのがあるよね。あれは福祉の切り捨て宣言なんだけど、結果としてイギリスのニューレフトは、活動のフィールドを「社会」から「文化」へと移したことになる。文化における陣地戦というやつだよね。社会がフィールドだと、社会民主主義がモデルになるけど、文化の場合はアイデンティティの承認が獲得目標となる。その文化が、政治的正しさ、いわゆるPCを経由してふたたび社会に吸収される。男女共同参画社会のできあがりってやつだよね。 その一方で、構築主義的な観点を導入すると、文化というのは、ネグリたちのいう「非物質的労働」とおなじ意味になると思う。労働という観点から文化を練りなおしていくのが、これからのカルスタの課題となるんじゃない。 ――その文化を吸収する社会っていうのは、社会主義のいう社会とおなじものですかね。 ▼社会というのは両義的で、オルタナティブの場所であると同時に、そうしたオルタナティブと国家や資本を媒介してしまうような機能ももっている。そういう意味では大学もそうだよね。たとえば、『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書)という本がでたけど、そのなかで市田良彦が「社会」を非常に明確に定義しなおしている。そこでは、マルチチュードと国家を媒介してしまう可能性が主張されていた。 それと二月に、大理奈穂子、栗田隆子、大野左紀子著/水月昭道監修『高学歴女子の貧困――女子は学歴で「幸せ」になれるか?』(光文社新書)という本がでた。女であることによって、貧困が加速するという観点から、自分たち高学歴ワープアのことを語っている。たとえば素朴な疑問だけど、マルチチュードに男と女ってあるのかね。 ――いや、ないでしょ。ないからマルチチュードなんじゃないですか。 ▼男女といって悪ければ、主人と奴隷を分割するような敵対性って、マルチチュード内部にも残るんじゃないの。たとえばフリーターとか大学の非常勤講師どうしが結婚したときに、家事の分担はどうするかの問題は残るでしょ。 ――そろそろ小説の話にいきましょう。今月の文芸誌の執筆者は他ジャンルからの参入が目立ちます。小林エリカ「マダム・キュリーと朝食を」(「すばる」)は二五〇枚と大作でした。小林氏はもともと漫画家ですね。 ▼これってタイトルからも想像がつくように、ひとことでいえば放射能をめぐる話だよね。たとえば大西巨人が野間宏の『真空地帯』にたいして「俗情との結託」といって批判したけど、俗情と結託するというのは、知らないものを知っているものに置き換える作業では避けることができないでしょう。そうなると、放射能というのは、俗情と結託しないと表現できないことになる。そしてこの小説では「光」というわかりやすいメタファーが用いられている。 放射能を光に、語り手を猫に、というように置き換える縦のラインと、電力にまつわる黒歴史という換喩的な横の連鎖、このふたつが交差しているせいか、意外と空間的な厚みのあるつくりになっているよね。縦の線によって、動物に対する感情移入の回路が読者に擦り込まれる。そのモードで、象が電気処刑される話なんかを読むと泣くよね。最初は嫌な予感がしたんだけど、最後まで読むと、わりといい感じ。 ――原子力が生みだす電気、遡ってそれを発明したエジソンへの嫌悪が小説中で随所に表われていますね。つまるところ原子力が使われたのも、人間の欲望を叶えるために電気を増やさなければならないからなんですよね。 ▼ためしに電気椅子つくってみようとか、象を処刑してみようとか、よく考えてみたらありえないよね。読後感としては古川日出男の小説に近いものがあって、津波で死んだ他者と動物実験で死んだ動物を同列に扱うような観点からの倫理が読みとれる。それを可能にしているのは電気椅子という小道具なんだと思う。あれって人間の内面に対する想像力を変換するものでしょう。人間の内面における意識の流れが、電気の流れに置き換わっている。 この「マダム・キュリーと朝食を」が縦と横のラインで組み立てられているのに対して、横の軸だけでやっているのが内村薫風「2とZ」(「新潮」)でしょう。この小説は、換喩的な出来事の連鎖だけでプロットが構成されている。この連鎖がひとつの全体としてまとまることが最後まで引き延ばされている。物語が完結することによるカタルシスみたいなものが先送りにされていく。方法意識がはっきりしているんだけど、このシュルレアリスムの手法って、ちょっとレトロな感じを受ける。わかりやすくシュールだよね。総体としては、何か後ろ向きな感じを受けるんだよね。 ――詩人の四元康祐氏による「カエルの聖母」(「文學界」)なんてどうでしたか。 ▼良くも悪くも詩人が書いた小説って感じがするよね。つまり、巨大なカエルのスペクタクルというモチーフの一本槍で小説を書こうという意図を感じる。これは詩やアートの発想だと思う。でもそれで小説書いていいのかという問題があるんじゃないの。 たとえば、芸術家ということでいえば、クマさん、篠原勝之の「鹿が転ぶ」(「文學界」)と対照的だよね。「鹿が転ぶ」は小説らしい小説と言えるよね。 ――でも、これって限りなくノンフィクションに近い、というか私小説ですよね。 ▼そこが小説というジャンルの不思議なところで、四元は小説でアートをやろうとしていて、篠原はアートをやっている自分についての小説を書いているわけだよ。視点のレベルが、ひとつ上にある。クマさんは作為なく自分のことを書いているように見えるんだけど、実はその方が小説らしくなっている。ひさしぶりに普通の小説を読んだ気がする。 そういえば、岡和田晃が「早稲田文学」で「「私」と〈怪物〉との距離――藤野可織の〈リアリズム〉」という評論を書いていた。かつての自然主義やリアリズムが想定していた現実と、藤野可織や円城塔がリアルだと想定している現実はまったく違うんだけど、それはどうしてかという問題をベースにして、藤野可織論を書いていた。 単純にいえば、小説を書いている人間が前提にしていた現実というのが、かつては象徴によって構築された現実だったけど、昨今においてはラカンが言うところの現実界が現実となっている。藤野可織は明確に現実界の作家なんだよね。話を戻せば、大西巨人という人は、ずいぶん昔からそうした現実界を生きていた作家だったということだよ。――つづく |
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