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評者◆小野沢稔彦
21世紀のアジテーション映画の試行――トニー・ガトリフ監督『怒れ!憤れ!』
No.3149 ・ 2014年03月08日




■まず、ラストシーンから始めよう。スペイン・太陽海岸。バブル期に買い漁られ、国際的リゾート地として開発された土地とそこに建つ白亜のマンション群は、グローバル資本世界の行きづまりの中で引き起こされた経済危機によって破綻し、今や誰からも見放されたまま、青い空と輝く太陽の下に放置されている。そこにこの映画の主人公――この世界を見るため、監督トニー・ガトリフによって送り込まれた(設定された)世界の〈見者〉たる少女――は、その強いられた流動の中で、この海岸にたどり着き、彼女が世界を巡る中で見たように、自らの生存の可能性を賭けて民衆が至る所で「不法占拠」し、アパートや列車などに住みついた戦いに倣って、そこで一時の安息を得ようとする。
 しかし、現在の放置されたかに見えるバブルの後の蜃気楼のようなモダンマンションは、紛れもなく私有性の下に今も管理されているのであり、そこではその私有性のための(流動する者のためではなく)「安心・安全」を保守するセキュリティが厳然として活きており、その防犯システムは、無人のままにそのシステムを発動させ、一瞬にして彼女はその建物の中に幽閉され、おそらくその内部で――どんな国家にも帰属出来ない流動する民衆の一人――誰にも知られることのないままモノと化し、やがて忘却されるのである。その虚無の空間のロングにガトリフは「戦いは続く」ことをアジテートする――そのことはまさに「アラブの春」が現時点で、テルミドール反動によって封殺されようとしている世界の情況をも象徴的に物語っているかのように深い絶望感を語りつつ映画は終わるのだ。しかし、戦いの記憶は民衆の身体性の裡に生き続ける。一見、虚しいアジはそのことの告知である。おそらくテルミドール反動とは、民衆の裡に蓄積された抑圧の負の歴史の重圧――民衆の自発的従属意識によった――の力を梃子として作動される。したがって「春」を讃美するだけでは何も語ったことにはならないのだ。マスコミなどが捏造する「物語」を解体し、民衆の怒りの内実に深く想いを馳せ問い直すこと――この映画『怒れ!憤れ!』はそうした試みであるだろう。この映画のラストシーンはアジテーション映画としては絶望的に暗い。しかしまた絶望的現実を見ない展望などないのである。
 映画の冒頭に戻ろう。海岸(どこの国でもない、とあえて言おう)に寄せる様々な漂着物に混じって、無数の履き物が漂着している。現代世界は強いられた漂流を余儀なくされた――そして流動することさえ断絶させられた死を強要された人々の残骸――、「国家」から排除された漂流する民衆の時代なのだ。そうした国家に帰属しないディアスポラな者の一人として少女は、アフリカから「世界」に流れついた。このパスポートなき少女は「世界銀行」から破産国家とされたギリシャに、まず入国する。そしてアフリカにいる家族に金を送るために、世界を流動しつつあらゆる国の警察を始めとする国家機関から逃げ続けながら稼ぎ口を探し続ける。しかし、そのことの内実はポリス=「警察・国家」からの逃亡であり、彼女はただ走り、あらゆる地を流動する以外にない。そしてその流浪の中で彼女は見る――多くの流動する民衆が、古い鉄道貨車や古いアパートを占拠し、ともかく相互に助け合いながら生き続けている現実を。ここには有象無象の顔――幼子から老人まで世界中から流れ着いた――があり、様々な名前の人々が生き、その生の現実が次々に映し出され、彼女はそうした人々と出会うのだ。この時、ガトリフは彼の系譜を忘れることなく(ガトリフはロマの血を継いでいる)、この世界の中でまったくの周縁の存在としての〈ロマ〉の存在を、その身体的(音も含め)あり様の全体をも確実に記録する――映画全体にわたって、例によってロマ音楽は鳴り響く。
 そして彼女は、この流動する人々を見つめる中から、今、この世界で起こっている〈叛乱する〉民衆の現実――ギリシャ・フランス・スペイン・中南米。そして何よりアラブ各地、つまり全世界で「怒れる若者たち」が立ち上がっていることを見、感じ(彼女は感性の人である)、その戦う人々の現実と、流動を強いられている査証なき者たちの現実とが、一つの強権システムによって作り出されていることを身体全体で感知し、その戦いの隊列に加わっていくのだ。
 そこに民衆が感知する様々なイメージ(例えば、チュニジアの果物売りの青年に繋がるオレンジの奔流)が――この映画が旧来のアジテーション映画を超えているのは、このイメージの豊かさによってである――、この映画の原作(というより、映画制作の原イメージ)であるレジスタンスの闘士ステファン・エセルのパンフレット『怒れ!憤れ!』を自由に断片化し、その怒りの言説と、世界の戦いの現実とがモンタージュされ、この息苦しく、生の条件を奪いつくすこの世界の現実への怒れる者の戦いを方向づけ、デモ=占拠闘争が重層的に鼓舞される。時に批判的に戦いは再点検されつつ、戦う民衆の心情を映し出し、同時にその民衆をアジテートする映画として、この映画はあるだろう。何度も言うが、ここには単に絶叫されるだけの観念語=政治言語としてのアジ言語だけがあるわけではないのだ。イメージが乱舞し、音楽が挑発し、くらしの細部が旧来のアジ映画らしくなく――そういう制度的映画を映画的に批判しつつ――モンタージュされるのだ。
 この映画ではドキュメンタリーとフィクションの壁は取り払われ、その二つの方法が衝突し合い相互に浸透し合う。そして私たちの〈映画〉という概念を打破しつつ〈文化革命〉の方向性を試行する。ここでその見事な表現たる一シーンを書いておく――それは紛れもなく無惨なラストシーンと対応しており、このように多くのシーンが二重・三重の仕掛けがなされていることも指摘しておこう。そのシーンは、流動する民衆によって占拠されたアパート――その壁面には全面的に戦いの言葉が書かれ、ストリートアートで埋められており、ベルリンの壁を想わせる――に辿り着いた少女の耳に、突然西欧的な音とは違った音が突き刺さってくる。音はロマの身体表現の一つであるフラメンコのタップの音であり、その占拠されたアパートの中央にある〈広場〉には、色とりどりの紙(民衆の心性そのもの)が乱舞し、その中央で見事なフラメンコダンスが踊られているのだ。そのシーンには、様々な戦いの場で多様に発せられた戦いの言葉が叫ばれ、それらは一体となって、この私たちの制度化された感性に揺さぶりをかけるのだ。徹底的に、この世界から排除された者たちの〈生〉への鳴動がここにはある。このように、新しいアジテーション映画の試行としてもこの映画に注目する必要があろう。
 建前的な政治言語による、なんとも虚しい映画(特にドキュメンタリー)が横行するこの国において『怒れ!憤れ!』を観ることは、この現在の「映画」なるものへの批判の一つの視点をも観ることのように思う。
 実に久しぶりに映評を書いた。ほとんど放置したままだった「連載」を今回より再開する。








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