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評者◆三上治
最終回 吉本隆明と中上健次、消えがたい記憶――二人がもういなくなってしまったということがなかなか信じられない
No.3149 ・ 2014年03月08日




(7)「いま、吉本隆明25時」のハイライト場面

 「いま、吉本隆明25時」のハイライト場面は人によってそれぞれ違って取り出されるかもしれないが、僕には「対談 歌謡の心(都はるみ・中上健次)」の中で『大阪しぐれ』の一番を吉本が、二番を中上が、三番をはるみが歌った場面であった。中上は都はるみに公の場で歌わせる作戦を色々と考えていて、この場面のために新宿のゴールデン街で流しのギター引きに話をつけてきていた。後で吉本は、前もって知らせておいてくれれば練習してきたのに、と恨めしげに言ったが、やはりこれはハプニング的にできたからよかったのだろうと思う。その後に都はるみは歌手復帰を果たしたのだから、中上は満足だったのかもしれない。中上にはこの場面が終わるまでは酒を飲むなと半ば冗談で強制していたのだけれど結果はどうであったか、記憶は定かでない。
 この集会はテーマを設定してのものではなかったが、吉本は都市論をⅠ・Ⅱと分けて展開していたように、都市論をテーマらしいものに考えてはいたようだ。彼にはこの前後に『マス・イメージ論』から『ハイ・イメージ論』へという展開があるが、経済社会の高度成長が生み出した幻想空間の膨張と変容を、現在という概念としてとらえようとしていた。マルクス主義的に言えば、上部構造的な世界の追求の作業であり、「共同幻想」の現在版の試みをやっていたことでもあった。彼は幻想的な世界(領域)の膨張と変容が、これまでも世界の認識を解体させ、拡散と空虚の進展として現象することに対して意識は無意識(起源)と死後の世界の双方に向かうことで、つまりは視線を拡張することで対応しようとしていた。この時の鍵をなす概念は消費社会であり、より根底的には人間と自然の関係の拡大としての遅延が考えられていたが、都市の変容はその対象として見られていたのだ。
 これは経済社会の高度成長を基盤に展開されてきた都市の動向を、国家と矛盾し、国家を超えつつあるのではないかという視座から分析するものだった。東京などが世界都市として国家の枠を超えようとしていることに注目してのことだった。経済や情報や文化などにおいて都市は国家を超えつつあるのではないのか、というのがこの時期の吉本の着眼点で、「南島論」で基層の文化などから国家を超えようとしたことの対極にある考えのようにみえるが、相互に関連するものだった。未来からの視線と過去への視線は対立するものでも、別々のものでもなかったからである。国家を超える幻想(意識)の生成として都市の動向に注目していたと言える。世界的視線の生成がそのイメージになるが、「南島論」のように基層文化を掘ること(取り出すこと)と都市で展開されている視線の高度化を自覚的に取り出すことは矛盾でなく、国家を超えるという点では共時的なことだった。
 「国家を超える」ことは、かつてなら理念的にはプロレタリア意識の世界的な成熟と生成において考えられていた。その変種としての第三世界や辺境から国家を超えるということが流布されていた。世界の経済過程は新たな世界的展開を明瞭にしているのに、国家は世界性どころか、既存の枠組みに回帰を強めているように見える。この世界都市が国家を超えつつあるというのは何処へ行ったのであろうか。これは『ハイ・イメージ論』とともに現在的に検討してみたいものとしてある。この時の吉本の提起は重層映像化と自然の内包化であったのだが、この対極で考えられていた基層映像化と都市の内包化(南島論)も含めて今日的な問題として残っているように思える。世界が見えにくくなっている現実の中でこの時期に提起されたものをいつか検討してみたいと思う。1980年代にこそ、現在の分からなさと混迷する意識の起源があるということを、僕はこの集会とともに想起する。

(8)おわりに

 80年代後半にはベルリンの壁の崩壊と社会主義の終焉があり、また天皇の逝去があった。この集会から丸二年たった後に、僕は吉本と中上の三人で北海道の温泉に出掛けて二十時間に及ぶ討論をやった。これは「いま、吉本隆明25時」の続きみたいなものだったが、まだ昭和天皇の死からあまり時間が経ていないこともあって、天皇が話題の中心になった。記憶に残るのは中上の天皇論だ。昭和天皇の死後に多く流布された立憲君主論に対する批判としては三人とも共通していた。これは西欧の近代の制度的解釈の枠組みにある視点で、昭和天皇の戦前は立憲君主的であったという解釈で、アジア的専制君主の側面を打ち消すというものだった。戦前の天皇、あるいは天皇制の強権的側面を否定するもので、平和の愛好者の天皇という像と結びついていた。戦後の天皇論に合わせるこの天皇論は史実に合わないものだ。
 それに対して僕らは違和を持っていたし、歴史の偽造につながるものだという批判を持っていた。中上は自分が熊野の出身であること、そして被差別部落の出身であること、この二つの要因は天皇に対する感覚を市民的感覚とは別のものにしていると述べる。自分と同じ実存状況に天皇もさらされていると思うともいう。つまり、天皇が万世一系なら負の万世一系であり、マイナスの極致なのだけれど、天皇の実存を肌身で分かると語る。そしてさらに、天皇は言葉を統括する存在であり、「天皇は僕にとって日本語の文法であり、天皇を逸脱して何もかけない」ともいう。この中上の天皇論は三島由紀夫の「文化概念としての天皇」を想起させたが、三島の人工的な感覚に対して中上は地域的な、それだけ自然な生存感覚に近いものに思えた。宗教感覚としてはもう半分くらいしか僕にはわからなくなっているものであるが、天皇や天皇制について考える場合にいつも想起することでもある。農村というか、村落共同体の基盤的な解体、あるいは減衰で天皇や天皇制的なものは力を失っていくだろうとは考えるが、中上の発想は別のところにあって、僕の中に今も想起されるものとしてある。この北海道の温泉での討議はいろいろの面にわたっていたが、吉本は「アフリカ的段階」の問題を提起していた。幻想の生成の現在性ということで今に関わる問題を提示していたのである。
 その中上も吉本ももういなくなってしまったということがなかなか信じられなくて、彼らとの対話を昨日のことのように思う。温もりのある言葉、表情が眼前によみがえるのを、何とも言えない気持ちで反芻したりしている。文学とは記憶であるとは中上の言だが、彼らのことは消え難い記憶としてある。
(評論家)
(了)







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