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評者◆三上治
中上健次の「路地」と、吉本隆明の「南島」――吉本は「南島」という言葉に何を託そうとしていたのであろうか
No.3143 ・ 2014年01月25日




(9)共同幻想は国家とイコールではない

 被差別部落の問題や天皇、あるいは天皇制の問題が政治的―社会的主題として現れたのは1960年代後半からだった。この問題については多くの人が論じ、また思想的な言及もなされてきた。その中には重要な業績とでもいうべきものもあるが、この問題の解決を意味するような思想的な成果は乏しかったと考えられる。現在では被差別部落問題も天皇、あるいは天皇制の問題も思想的な主題という場所からは遠ざかっているように見える。これが基盤の問題なのか、単なる情勢的な問題なのかは判断が難しい。ただ、これらの問題が思想的に解決したとは言い難いことは確かで、契機によってそれはまた大きな思想的課題として出てくる、と思える。その意味で吉本が「被差別と差別の問題は中上健次の文学によって理念としては終ってしまった。あとは現実が彼の文学のあとを追うだけだ」(『追悼私記』)と評したことは重要な意味を持つと思う。ただ、文学的な達成が政治的―社会的運動上の達成とは違うという理解がないと、すんなりとは受け入れられないかもしれない。文学はあるところでは政治運動や社会運動を凌駕する力を持つが、ある面ではそれに対して無力というところもあるからだ。
 僕はあらためて、中上が被差別部落を原基とする「路地」の物語を書き続けてきたことの意味を考えたい。これは比喩といってもいいのだが、吉本隆明が『共同幻想論』のあとに「南島論」を課題としてきたことに重なるように思えてならない。吉本が「南島論」にのめりこんでいった契機としては、当時の沖縄問題という政治的―社会的課題の登場があった。しかし、これは契機にすぎないのであって、もっと深いものがあったように思う。何故なら、吉本は沖縄問題を、当面する政治的―社会的な解決よりももっと長い射程で考えていたからである。そうであれば、吉本は「南島」という言葉に何を託そうとしていたのであろうか。僕は、日本国という「共同幻想」を超える幻想を掘りだそうとしていたのではないかと思う。日本国の「共同幻想」とはいうまでもなく、天皇や天皇制と基盤を同じくするものである。それを超える共同幻想とは、日本人や日本列島の住民の幻想という意味である。文化といってもよい。大衆原像の歴史的な存在様式といってもいい。
 国家の本質は共同幻想であるが、共同幻想は国家とイコールではない。国家以前の共同幻想や国家以降の共同幻想ということを考えてもらえばいいのだが、その場合には共同幻想は文化あるいは幻想でいい。共同幻想の疎外態としての国家とは別のものであり、積極的で肯定的なものと考えられる。幻想とは幻影ではなく、人間の精神であり、精神の形態である。吉本が「南島」という理念において紡ぎ出したかったのは国家、日本国家以前の幻想(共同幻想)であり、現在の国家を超えていこうとしたのだ。未来から、あるいは未来の視座から、ということは国家以降の視座から国家を超えることである。現在を超えるための不可欠な道なのである。

(10)日本国という幻想を超える場としての「路地」

 中上が「路地」という場を設定したことには偶然と必然が混ぜられていて、なかなか説明しにくいように思う。彼の感性的基盤からはなれまいとする志向が働いたように思うが、彼はその場で幻想を紡ぎ続けようとしたのである。場としての「路地」の解体は、彼にとって幻想が紡げなくなっていくことにほかならなかった。ここには大きくいって二つのことがあったように思う。一つは現実に路地の基盤が解体されていくことにほかならない。極めて複雑な事態として進行したことは、『熊野集』を見れば推察のつくことである。土地改良事業などは現実にはなかなか抗いにくいことであり、また親族も絡み、現実的利害に対することは困難であったように思える。もう一つは、彼の紡ごうとする幻想が世界の方から解体の圧力にさらされ続けたということである。
 村上春樹は中上健次を「書くべきことのある」作家と評していた。自分は「書くべきことがない」作家として対比してのことだ。「書くべきこと」も解体にさらされていたのであり、解体の力は世界の方からやってくるものだった。バブル経済へと突き進む高度成長経済の展開、サブカルチャーが全盛となっていく時代の動きがそれであった。一般的には物語の不可能性が進行することとして語られたし、新しい時代の到来を予感させるものとも思われていた。中上は『千年の愉楽』で明らかなように、路地の物語を生と死を超えた視線と、アジア的あるいは古代的世界の方に拡げることで時代の動きに対抗しようとしていた。解体を進行させる時代への対抗である。そして、アメリカや韓国などに出掛けていき、「路地」の普遍性を見いだそうともしていた。これらが何を産みだしたかは簡単にはいえないことであるにしても、彼は行動することで時代に抗おうとしてもいた。だがいずれにせよ、彼が物語の場としての「路地」を存続させることの困難に直面していたことは疑いえない。吉本は『マス・イメージ論』で『共同幻想論』の続きを書こうとしていた。『共同幻想論』から「南島論」の過程で、吉本には日本国という「共同幻想」を超える幻想を紡ぐ(掘る)という試みの挫折があった。中上がどこまで意識していたかはあきらかにしえないとしても、被差別部落を原基とする路地を、吉本の「南島」と同じような位置にあるものと思っていたと推察しえる。やはり、それは日本国という幻想を超える場であり、その場から日本国の共同幻想を超える幻想が紡ぎ出せると考えていたのではないかと思う。この困難が増す中で書かれたのが『地の果て 至福の時』である。これにはいろいろ評価があるが、「路地」を場とする物語を一番深く展開したものであることは確かであった。
(評論家)
(つづく)












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