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評者◆三上 治
自由な人間の姿を示す中上健次――『千年の愉楽』の若者は、悲劇的で輝ける存在だ
No.3141 ・ 2014年01月11日





(5)文壇バーでの中上

 今でもあるのかどうか知らないが文壇バーというのがあった。僕は前のところで紹介した「詩歌句」に二、三度ほど行ったくらいなのだが、そう言えば中上に連れられてというか、彼がよく出入りしているというので「風花」に行ったこともある。1980年代後半からのことだ。今では文壇が存在するのかどうかも定かではないが、中上は文壇バーに出入りし、喧嘩し、一番強いと言われていたらしく、数々の武勇伝も残している。80年代後半に親しくつきあうようになってからよく飲み歩いた。彼は夜な夜な飲み屋に顔を出し、彼を探すのは飲み屋に行けばよかった。彼は酒が入ると書けないと言っていたから、どこで書く時間を確保しているのか気にはなった。人は食物をとって身体を保持しているのと同じように、言葉や文字などの食物で精神的身体を生成(再生産)している。書くことは精神的身体の表出であるから、そのための時間の確保が必要と思われた(もちろん、人の見えないところでしていたのだろうと想像はできる)。
 太宰治や坂口安吾にしても、精神的身体である文学的表出の基盤を放浪的な生の中で得ていたのだから、不思議なことではなかったにしても、彼の精神的身体の再生産は生命力溢れるようなものであり、その多くを日々の行動の中で得ていた。中上にも書くことの精神的重圧は強いものがあったと想像できる。文壇バー等での行状は重圧の解消になったのか、あるいは逆にさらなる重圧を背負うようになっていたのか。よくわからないが、しかし中上のような存在はもう現れないのだろうと思う。彼がそんな日々の中でどんな夢を見ていたのか、その深い苦悩を想像することもあるが、それらを秘めながら破天荒な生き方をしていた中上はそれだけで輝いていた。中上の行動そのものが文学的だったのだ。
 中上の作品の中で僕は『千年の愉楽』が一番好きと言ったが、この作品に描かれた若者たちの悲劇的な生が中上の生そのものと重なってしまうところがある。読み込み過ぎかもしれないが、そんなことが浮かんできて仕方がない。
 『千年の愉楽』は、彼が文学的に創出した「路地」と同じように幻想的に生み出した物語であり、主人公は幻想として紡ぎ出されたものである。同時期に書かれた『熊野集』は、この作品の舞台裏を書いているものが多く、その意味では興味深い。「路地」を別の面から描くいい作品だが、作品の完成度という意味では『千年の愉楽』の方がいいと思う。

(6)『千年の愉楽』詳論

 『鳳仙花』に続く『千年の愉楽』、『熊野集』を書いている時期は、中上にとっては結構きつい心的状態にあったと推察できる。前に書いたことだが、この要因には世界像の急速な変容があった。高度成長の過程がもたらしたサブカルチャーの興隆の中での世界像の解体があった。一般的には正統文化の解体と言われるが、古典近代像である世界像の解体である。別の言い方をすれば共同幻想の解体、拡散と空虚化の展開と言ってもよかった。政治も文学も基盤的な解体に作用していたと言える。60年代から70年代まで続いていたラジカルな表出(幻想的表出)は、古典近代的な世界像に対する、あるいはその秩序に対する反抗でもあったが、もうそれは内ゲバのような迷走か、熱核戦争批判のような停滞に陥っていた。幻想域にある文学もまた同一で、文学的表出の基盤的解体の中で迷走するか、停滞に陥るかしかなかった。空虚の深まりを「書くことのないことからの出発」で対した村上春樹のとった道は時代に抗する一つであった。共同幻想の拡散と空虚化の中で、これを基盤とした表出を追求することは一つの道であり、村上春樹はその代表だった。が、中上は別の道を取っていた。
 吉本隆明は『マス・イメージ論』(世界論の項)で、『千年の愉楽』を物語が解体し、不可能になっていく中で、古典近代的な世界像からの逸脱を〈再表出〉に転化しようとしていると評している。物語の舞台を死者の領域まで拡張させ、また、アジア的、古代的な世界を仮構することを現在の世界像に抗する表出の方法と分析していた。中上は解体される自己の感性的基盤、あるいは幻想的基盤(精神的)の保持と再生のために、被差別部落を原基とする「路地」という世界を創出した。そしてこの被差別部落の解体と世界像の解体が重なる中で、幻想としての路地の再構築を試みたのである。中上が展開したのは時代に抗した自由の表出であり、共同幻想という世界秩序を突き破る自由の表現だった。その意味でこれはかつてのラジカリズムを表出として受け継いだものと言ってもよかったのである。
 この作品は「路地」に生きる中本一統の若者たちの悲劇的な生を描いているのだが、この生を透視している「オリュウノオバ」という存在が設定されることで、鳥瞰できる装置が作られている。主人公たちは「路地」と呼ばれる場所において、ヤクザや遊び人などとしてあり、また生業として下駄直しや山の雑役人夫などをやっている。いうなら卑小な存在であるが、同時にその容貌や歌舞能力等に秀でた存在である。そしてこの世と死の世界にまたがる存在であり、その輝ける頂点で悲劇的な死を遂げる。
 『千年の愉楽』は「半蔵の鳥」から「カンナカムイの翼」までの六編で構成されている。「半蔵の鳥」の半蔵は二親から置き去りにされて、路地で育てられた。それでも中本の血を引く男ぶりの若衆になった。半蔵は女出入りがもとで男に刺されて二十五歳で死ぬ。半蔵の演じる世界は善悪を超えたものであり、自由な存在なのだ。中本一統の若者は中上が造形した路地の若者であり、その悲劇的で輝ける存在は幻想として生み出されたものである。その若者の物語から僕らが受けるのは、善悪を超えた自由な人間の存在である。人生の頂点で死ぬことの悲劇は自由と引き換えに秩序に衝突することの象徴だが、秩序(共同幻想)から自由であることの代償でもある。彼はこうした存在を描くことで、自由な人間の姿を示していたのだ。
 また、この作品は中上が被差別部落解放のためにやろうとした文化運動の挫折に対する解答のような意味を持っていたのだと推察できる。
(評論家)
(つづく)







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