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評者◆添田馨
土地の記憶、言葉の記憶――三つの小説作品から
No.3138 ・ 2013年12月14日




■自分が生まれ育った故郷の町のせいぜい五キロ四方もないと思われるエリアが、時代も作者も異なる三つの小説の舞台になっている事実を、私はかなり長じてから知った。眞山青果「南小泉村」(1912年)と三島由紀夫「美しい星」(1962年)、それから佐伯一麦「鉄塔家族」(2003年)である。偶然と言えばそれまでだが、今回なぜか興が湧いて、この三つの作品を比較対照してみたら、実に不思議な感懐に捕われた。それはある地域の情景を映した昔日の写真を、年代別に、一堂に並べた回顧展を観せられる感じに似ていた。
 「南小泉村」には自分の痕跡すらない時代の、まだ故郷とも呼べぬ故郷の描写があった。「美しい星」には七歳ぐらいになった自分が明らかに共有していた町並みの記述があった。そして「鉄塔家族」にはほとんど現在と地続きの叙景が至るところに埋め込んである。互いに異なる三つの時空間を繋ぎ留めているのが〝記憶〟であることに私はそのとき初めて気が付いた。
 文学の世界を構成する元素は〝記憶〟である。言葉を読んでいるように見えて、実は私たちは自分の記憶をその中に読んでいるのである。それが文学を読むことの独自な意味だと言ってもいい。純粋な記憶だけの世界を紡ぎだす時空を超えた力が、こうして文学作品どうしをも繋いでいく。
 眞山作品には「大年寺颪」という言葉がみえる。一般人には意味不明だろうが、土地の者にはそれが西方の大年寺山を越えて吹いてくる寒風のことだとすぐに分かる。三島作品で登場人物の三人が空飛ぶ円盤を目撃するのも、この大年寺山の頂である。佐伯作品では名指しこそせぬものの、括弧つきの「山」という表現で随所に現れる重要な舞台にもなっている。それは私が物心ついた頃から毎日眺めた山なのに、もうすっかり忘れかけていた。土地の記憶すら本当は言葉の記憶としてしか残らない。文学作品における言葉の創出は、そこで経験世界の更新と別ではないのである。







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