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評者◆高橋宏幸
ファンタジーの孕むリアリティ――オーストラリアを代表する劇団、バック・トゥ・バック・シアター公演『ガネーシャ VS. 第三帝国』
No.3137 ・ 2013年12月07日




■すでに世界的に、この作品は圧倒的な評価をもっている。アメリカやカナダの諸都市だけでなく、ヨーロッパの数々の国にも招聘されている。イギリスのガーディアン紙の昨年上演された作品のベスト10のなかにも入っている。それが、今回「フェスティバル/トーキョー」で上演される(※12月6日~8日)。オーストラリアを代表する劇団、バック・トゥ・バック・シアターが作った作品、『ガネーシャ VS. 第三帝国』は、おそらくストーリーだけを聞けば、荒唐無稽なファンタジーに映るかもしれない。
 インドにいるヒンドゥー教の神の一つ、頭が像であるガネーシャが、吉祥を意味する記号の「卍」が、ナチスによってハーケンクロイツとして奪われたと言うのだ。それを取り戻すために、ガネーシャはインドからドイツへと旅をする。たしかに、ハーケンクロイツは卍を模して作られた。それは、おそらく事実だ。だが、ガネーシャという神が、それを取り返すために旅に出るというのは、ファンタジーのように映ることは仕方ないだろう。実際、はりめぐらされた演出の方法も、ファンタジー的な世界を彷彿とさせるものではある。
 ただし、それは単なるファンタジーにとどまらない。ファンタジーにリアリティの要素を補完するために、基本的なストーリーラインはもう一つある。それが、俳優たちがこの作品を上演するにあたって、話しあいと稽古を重ねるシーンだ。それが所々で間に挿まれて、この作品はメタシアターの様相を呈する。だから、稽古場とガネーシャの冒険譚を往還しつつ、この物語は紡がれるのだ。そして、俳優たちはその作品を上演すること、ナチスやヒトラーを演じること、それ自体についても問いながら、上演の稽古を重ねる。ただし、その議論は、これからフェスティバルで上演される以上、細かいストーリーの話はしないが、いわゆる通常の予想がつくような議論からはずれている。
 俳優たちは、大部分のメンバーが知的障がい者で構成されている。だから、というわけではないが、障がい者でないものが、差別と思い口を塞いでしまうようなことを、彼らは率直に述べる。むしろ、それが作品のストーリー以上に、この作品にリアリティを与えている。作品の全体は確かにファンタジーの衣裳をまとっていても、観客へとリアリティをつきつける瞬間がそこにはあるのだ。それは、言葉におけるポリティカル・コレクトネスとポリティカル・インコレクトネスの境界の画定を――それは常に可変的な不確定なものではあるが――その場で観客が、俳優たちの演技から考えることを迫られているかのようなのだ。
 むろん、それはそれぞれの観客にとって、違うものとなるだろう。少なくとも、そこには、観るものの内面に潜む差別というマイノリティへの問題、舞台で演じる障がい者たちへ向ける、マジョリティのまなざしが、反射するように問いかけられている。それは、象の頭をもつ神のガネーシャの存在とも関係する。その奇妙な姿となった神に向ける視線は、否が応でも俳優たちにもパラレルに向けられてしまう。
 だからこそ、この作品は一見するとファンタジーであっても、ファンタジーにくくれないのだ。むしろ、ファンタジーへと逃げ込まないといっていい。その子供から大人まで見ることができる作品の表れと違って、ガネーシャがもった旅の困難とは、観客へと向けられた、われわれが見ることの困難へと転化している。周到に重ねられた、この作品に描かれたいくつもの層は、否が応でも観客の思考を捉えて離さない。







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