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評者◆三上治
「停滞論」について――「停滞論」で吉本隆明が指摘したかったのは何だろうか
No.3137 ・ 2013年12月07日




(13)「停滞」の自覚

 いつごろだったろうか、新宿にあった「詩歌句」という飲み屋で久しぶりに埴谷雄高にあった。詩歌句は伊東聖子さんがやっていたバーだった。文壇バーと言われたものの一つだったのだろうが僕ははじめてだった。若いころに埴谷家に何度かお伺いしたこともあったが、それ以来だった。僕は当時、雑誌『乾坤』を出していて、名刺代わりに差し上げた。そこで、ちょっとした政治的な話題になって、三上は吉本派だという埴谷の言葉が記憶に残っている。何カ月か後に埴谷は雑誌『世界』での大岡昇平との対談でこれを取り上げていた。この対談はやがて『二つの同時代史』という本になるが、埴谷・大岡と吉本の論争にもこの個所は取り上げられていた。『乾坤』と吉本が出していた『詩的乾坤』の混同を正していたにすぎないが、この論争は左翼的知識人に大きな波紋を投げかけた。正統左翼の解体をめぐる象徴的な論争と言えた。
 1980年代の論争としてよく知られている吉本・埴谷論争は、前回に少しだけ語った『マス・イメージ論』の中の「停滞論」に含まれる。70年代後半から80年代の経済高度成長時代に対応するように幻想域(政治・文化域)ではサブカルチャーが全盛期になり、正統文化は解体と減衰の時代にあった。まだ高度情報化社会という言葉は使われていなかったが、意識(幻想)の過剰化とその生産のスピード化は速まっていた。新しい時代の予感を促されながら、それを見通すことのできるビジョンや理念が何処にもないというように心的(精神的)には現象していた。過渡という意識は60年代からあったが、それがもう一段深化しただけでなく、質を変えたようにさえ思えた。
 つまり、60年代の過渡という意識には世界や歴史へのとっかかりの意識(方法的な世界認識の可能性)が残っていたように思えたが、それも危うくなっていく感がした。拡散とか空虚という言葉にしても同じで、それが時代を表現する喩としては違った風になってきていた。僕らは慣れ親しんだ帯域の中に閉じこもって思考し、時代に向きあうほかなかった。日常的な判断や言葉が混迷しているというよりは、全体として何が生じ、何処に向かっているのか分からず不安は深まるばかりだった。幻想域の膨大化と流れのスピード化で、全体的なことの関わりを促されながら、言葉はむしろ解体して失語の感覚は深まるように思えた。この停滞を停滞として自覚し、それを超えようとする思想的な営みならともかく、怪しげなものも出現する。大衆的な支持を受けてである。これに対して疑念の目を向けたのが「停滞論」ということになる。

(14)幻想と世界の恐ろしさ

 「停滞論」で吉本が指摘したかったのは何だろうか。時代の変化の速さと解体の中で、その不安と危機に対してある時代の思想を復権させようとする動きであった。反動という言葉を使えばいいのだろう。停滞そのものは時代の必然であるが、この停滞を破るかのように出てくる運動や思想はよく見極められなければならない。
 その一つとして出てきたのが反核運動であった。大きく言えば、60年代からの独立左翼運動の状況が象徴する反権力運動の停滞の中から出てきたものであった。アメリカのレーガン政権の対ソ核包囲網の動きに端を発したソ連側の対抗運動として出てきた熱核戦争危機と批判に対応したのが日本の「反核運動」だった。吉本のこの運動への批判は二つあって、一つはこれがソ連側から出てきたものであり、まだ米ソ対立の残る時代でのソフトスターリン主義の党派的運動だということだった。米ソを等しく対象にした反核運動を吉本は提起していたのだが、この反核運動がソ連圏の崩壊で消えてしまったのを見れば吉本の主張は正当だった。もう一つはこの政治的主題(熱核戦争の危機)に対する疑念であった。吉本にはこのころ書かれた『空虚としての主題』という本があり、政治や文学での主題の喪失が論じられているが、幻想域で現れた指示表出の言葉の解体状況を指摘していた。主題の空虚化の自覚もないものとしてこれはあるというものだった。少し前に清水幾太郎が「核の選択」(日本の核武装)を主張し、福田恆存等と論争をしていたが、これも空虚な主題の展開の一つと言えた。
 サブカルチャーの波に解体をせまられた正統文化としての左翼の解体状況、その停滞に対する政治的な表現が「反核運動」だったが、これは予期せぬ新しい時代の予感に対する逃避であって、意識された遁走とも違うものであった。反核運動に随伴していた中野孝次の「清貧の思想」も同時に批判されていた。ここでの問題は、「反核運動」にはもう一つ、原発問題とエコロジーがあった。吉本の思想的な対応は政治的な「反核運動」とは別のものであったが、多くの論議を呼ぶものでもあった。僕はこの点については『ハイ・イメージ論』のところで触れたいと思う。
 「停滞論」ではもう一つ、ベストセラ―となった黒柳徹子の「窓際のトットちゃん」を取り上げていた。この核心を吉本は著者に強固に保存された戦前の「トモエ学園」の自由教育の理念と、豊かで恵まれた自由主義の庭訓や家族の雰囲気に対する郷愁のようなものの記憶としている。「そこで現在の停滞が膨大な読者に振り返らせる理念の郷愁としてこの作品は存在する」(『マス・イメージ論』、停滞論)というわけだ。吉本はリベラリズムの基盤である市民社会が、国家の管理と調整のもとに絶えずさらされてある他ないから、逆説的にこういう郷愁が出てくるのだと指摘する。
 大原富枝の『アブラハムの幕舎』を取り上げ、現在の崩壊しかかった家族の状況を指摘している。幻想域の中で家族(対幻想)の世界もまた停滞にあって、そこからの脱出の試みがなされている。その表現として「イエスの方舟」をモデルにしたこの作品は好意的に評されている。停滞は時代のしいる必然だが、それとどう向かいあうかはいつも大変だ。一つ間違えば知らず知らずのうちに反動のほうに誘われてしまう。これが幻想と世界の恐ろしさでもある。
(評論家)
(つづく)







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