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評者◆伊達政保
大島渚の映画はオイラにとって政治映画であり知識人映画であった
大島渚の時代――時代のなかの大島渚
小野沢稔彦
No.3134 ・ 2013年11月16日
■小野沢稔彦著『大島渚の時代――時代のなかの大島渚』(毎日新聞社)は、政治的状況論を踏まえた作品論、映画論であり、ドキュメンタリー映画も含め大島映画の全体分析を行っている。その政治的分析にはなるほどと納得させられたし、教えられることも多かった。
大島渚の映画はオイラにとって政治映画であり知識人映画であった。たしかリアルタイムで最初に見たのは『忍者武芸帳』だった。それまで、松竹ヌーベルバーグの旗手で『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』の監督ということは知っていたが見る機会はなかった。『忍者…』のヒットを受けて仙台の名画座で前記二本立で上映されたが、敬遠してしまった。以後、封切りごとに『日本春歌考』『無理心中 日本の夏』『絞死刑』『帰って来たヨッパライ』『新宿泥棒日記』と見ていった。高校生のオイラにとって斬新で難解ではあったが、同時代の文化や雰囲気をこれらによって理解することが出来た。新宿には時々遊びに行っていたので、その文化的情況を少しは体験し知ってはいたが。 昭和44年、大学進学で上京、吉本読まねば、大島、若松映画を論ぜねば人に非ずの文化的雰囲気に辟易しながらも、バリケード内の自主上映や映画館で未見の映画を見ることが出来た。若松映画は高校時代、ピンク映画館で何本か見ていたしね。10、11月闘争までの激動期、目まぐるしい活動の中で、大島映画は情況を先取りする知性の映画であり、若松映画は情況に並走する感性の映画だと、分かった風に論じていたっけ。45年、風景論が論じられる中、『東京戦争戦後秘話』公開。これまた難解というか、情況に戸惑ってるとしか思えなかった。オイラも現場にいた豊島公会堂での中大全中闘政治集会へ、分裂したML派全中闘がデモで押しかけるシーンも出てくるが、たしかに混迷の状況だった。46年、『儀式』公開。その年の日本映画ベスト1であり大島渚の最高傑作と言われた。たしかに結婚式、葬儀を媒介とした戦後史の総括には唸らされた。何のことはない、オイラ自身にこの映画を理解出来る知識が付いたってことだった。ところが、47年公開の『夏の妹』には愕然とした。沖縄返還によって明らかにされた現実が、捉えられてはいなかったのだ。4年前に撮られたNDUのドキュメンタリー映画『モトシンカカランヌー』が捉えた沖縄の現実には全く及ばない。知識人が情況に追い越されてしまったのだ。オイラにとっての大島映画はこの作品で終わる。後の作品も見てはいるがね。 本書を読み進むうちに、えっ! オイラも参加したポナペ独立運動で『十五少年漂流記』を撮ろうとしてたなんて。初めて知った。 |
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