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評者◆池田雄一
だれか俺の記憶をスキャンしてくれ
No.3130 ・ 2013年10月12日
◆――九月二二日に、差別撤廃を訴えるデモ「東京大行進」が行われました。これは画期的なことなのではないでしょうか。
▼昨今巻き起こっているヘイトスピーチ・デモに抗議するという趣旨、つまりカウンターのデモだということになるけど。わが作家たちも、何人か賛同人になっていたね。 ヘイト・デモでは、「殺せ」とか、耳を覆いたくなる言葉がとびかっている。それだけでなく、その言葉のあとに「我々の怒りの表明である」というような、説明の言葉が被さってくる。聞くに堪えない言葉の暴力が、いつのまにか崇高な言葉のように書き換えられている。まるで国家だよね。言論においては、まずこの言語行為的な弁証法をいかに解析していくかが課題になるでしょう。 ――国家といえば、中国にかんしての本がやたら目立つような気がします。 ▼それらの本というのは、どうも読者として「知中派」をターゲットにしているような気がする。つまり、中国に対して「敵対」か「友愛」かという選択をする前に、とにかくもっと中国について勉強しましょう、ということだと思う。 たとえば、橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司の三羽ガラスが『おどろきの中国』(講談社現代新書)という本をだした。理論社会学って、ともすればモノローグになりがちなんだけど、この本では、三人が互いの議論を訂正し合いながら進めているせいか、そんなに悪くなかった。「そもそも国家なのか」という帯に釣られるのは嫌だけど。 中国にかんしては、ちょっと前に、与那覇潤が『中国化する日本――日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)という本をだしている。日本の近代化、もしくは西洋化というのは、じつは「中国化」を意味していた。なぜなら中国は、宋の時代にすでに近代化されているから。これも中国との関係から歴史をスキャンしていくことによって、現在における敵対性を解毒していく趣旨の本でしょう。 こうした、世界史、日本史を問わず、歴史をスキャンし直すことによって、歴史の無意識を可視化しようという試みが目立っている。柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店)は、そうした観点から評価することもできる。与那覇は、東島誠との共著『日本の起源』(太田出版)をだしているけど、やはりその趣旨の本だと思う。 そう考えると、この「歴史精神分析」のような言説と、前に取りあげた「ハイ・ナラティヴ」とは、分けて考える必要がある。後者は、むしろ歴史性の消去に帰結するはずだから。でもだいたいは、J・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』のように両義的なんだけど。 『おどろきの中国』では毛沢東の話も当然出てくるんだけど、たとえば大躍進政策なんて何千万人もの人が死んでいるのに、何で彼は未だにリスペクトされているのか。この本ではもう一度中国史に戻って、中国史における「天」の概念、「革命」の概念、それと中国共産党の今の位置づけを検討し直していくことなる。 こうした観点から、よりハードにアプローチしたのが、丸川哲史『思想課題としての現代中国――革命・帝国・党』(平凡社)――丸川氏は、以前から歴史精神分析的なことをやってきているけど、この本では、それが凝縮されている。たしかに中国って、日本の明治以降の脱亜論的観点からだと理解ができない部分が多すぎる。それを可視化するには、やはりスキャニングが必要になってくる。 この本には中国の核開発についても書かれている。中国では、「核開発すること」と「自分たちが第三世界に属していること」とは、切り離せないことになっている。第三世界に属している自分たちが、他国に対しての自律性を確保するために、核開発は不可欠だという話だよね。スガ秀実によると、毛沢東主義が日本に輸入されて、今日のエコロジー思想とつながっている。エコロジーと「核」の関係は、こちらが想像する以上に捻れていることになる。これを分かりやすく言うと『風の谷のナウシカ』における「ガンシップ」にあたるのが、第三世界における「核」だという話なんだけど。 それで、一九六四年に中国は核実験に成功する。七二年におけるニクソンの訪中によって、中国共産党は、一時的にでも「核による平和」を成し遂げたことになる。丸川氏が冴えているのは、こうした状況と北朝鮮の核開発を重ね合わせているところでしょう。つまり、何も北朝鮮は気が狂って核開発をしているわけではなくて、中国の成功例を見て、その理想に向けて政治的な駆け引きを実践している。こんなことが言えるのは、彼だけだよね。 ――そろそろ小説の話にいきましょうよ。 ▼今月の目玉は太田靖久「コモンセンス」(「新潮」)――いろんな意味で力作だよね。まず主人公である刈谷の子どもが誘拐されるところから話がはじまる。刈谷は小学校のころに、「いじめ」なのか「遊び」なのか、よくわからない遊びを経験している。この「遊び」のターゲットになったのは全部で三人いて、その三人とは今も関係がつづいている。何か気まずいよね。 結局、つれさったのは子どもができてから主人公と離婚した女性だったんだけど、彼女は「コモンセンス」と呼ばれる、ヘンな体験型の現代アートに、自分の子どもを無理やり放り込んでしまったんだ。 息子はひと晩で帰ってくるんだけど、そのアートのせいで、髪が真っ白になってしまう。おまけに「人はみんな死ぬんだ」みたいな、悟ったような怖いことを口走るようになる。そしてその分、手のかからない「いい子」になってしまう。この「コモンセンス」が大評判になって、大勢の大人が子どもを入れようとするから大変、大騒ぎへと発展する。 小説のスタイルとしては、子どもが誘拐されてからの展開と、小学校時代の「遊び」の記憶という、ふたつの語りが、並行的に語られている。この「遊び」というのが、なんというか、あまりにも「昭和」を彷彿とさせる、ある意味、牧歌的なものだった。 ――「神」と「箱」というふたつの遊びですね。「箱」というのは、だれかひとりを箱のなかに入れていたぶる、というものです。 ▼まるで体験型のアートのようだよね。それにしても、読んでいる方の髪の毛も白くなりそうな、薄気味悪い小説だよね。何て言ったらいいのか、作品全体から立ち上がってくる「白」のイメージが強烈すぎる。無駄のない文体もそれに荷担している。 「箱」というのは、体験する当事者からすると暗闇を体験するアトラクションなんだけど、周りでみている人にとっては、それ自体がひとつの「オブジェ」なんだよね。怖いよね。そこは関係が非対称になっている。つまり、ここから読み取れるのは「アートと死の関係」なんだと思う。それにしても、あの覚醒した子どもの科白って怖いよね。 子どもに関して言うと、大人が子どもという存在に対して持っている潜在的な不安を、凝縮して物語化しているような気もする。子どもって日々成長するでしょう。それは日々子どもじゃない存在に変わっていくということで、それを凝縮すると、あの覚醒した子どもということになる。一気に成長したってことは、ゾンビになるのと同じでしょう。 ――どちらかと言えば「哲学的ゾンビ」に近いですね。それにしても、こんな小説って、突然に出てくるもんですね。 ▼でも時代の空気として、アートと「死という観念」が接続する空気があるのでは。たとえば「人体の不思議展」で、人間の輪切りの標本が話題になるとか。もともとアートって、オブジェの持っている生活世界の文脈を遮断することによって成立しているフシがあるので、そういう意味では、どこか屍体に似ている。 そしてこの主題は、木下古栗「新しい極刑」(「すばる」)、あるいは野村喜和夫「骨栽培」(「すばる」)においても展開されている。 木下古栗の場合は例によって「おいたの過ぎるアイロニー」といった様相なんだけど、現代アートの珍妙ぶりと、「剥き出しの生」ならぬ「剥き出しの死」を重ね合わせている。まあでもちょっと、読んでいて飽きるような気がしないでもない。 一方で「骨栽培」は、やはり同じモチーフを、べつの語り口で語っている。自分の背骨をみている自分、という主題だよね。「女を抱く背骨」というモチーフが反復的に登場していて、それが嫌味じゃない点に、書き手の人徳を感じる。そして最後が、何故か『遊星からの物体X』のラストみたいな感じになっている。 ――山下澄人氏の「コルバトントリ」(「文學界」)はどうでしょう。 ▼「コルバトントリ」は、あきらかに記憶のスキャニングが主題となっている作品でしょう。スキャンされている記憶が、読み手の記憶とリンクすると、とんでもないカタルシスを得ることができる。『早稲田文学』の付録で完全版がでたけど、黒田夏子『abさんご』も同じタイプだと思う。つまり、現実世界ではなく、小説世界独自の因果律を構築しているんだけど、それがどこか自由連想法に近いんだよね、たぶん。こっちの記憶もスキャンされているような感覚があるんです。そういう意味では、歴史精神分析的なものと、どこかつながっている気がする。 最初の話題に戻るけど、「ヘイト」において問われているのは、自分たちの記憶なんだと思う。なんで入管における人権侵害をスルーしてきたのか。どうして中国を小馬鹿にするような発想がでてきたのか。問うべきは、その無意識なんだと思う。安易な敵対の物語に放り込まれないためにも、記憶のスキャニングが必要なんだ。これは反原発についても言えると思う。 ――つづく |
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