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評者◆三上治
「世界を変えるために必要なもの」とは――「他力」とは、どのように理解したらいいのか
No.3129 ・ 2013年10月05日





(9)世界的、全体的な視線を得ることの方法的な難しさ

 世界を変えるために必要なのは、現実を超える視線と現実の中の動きである。よく知られているように、マルクスは現実の矛盾の中から発生する運動を提起している。それは現実を止揚しようとする絶えざる運動のことだが、ここで言えば後者である。そして前者は理念的な運動とでも言えばいいのだろうか。そうであれば、この二つはどのような存在であり、また相互に関係するのか。吉本が親鸞についての論究の中で追い求めた問題を僕はこう読んできた。もちろん人それぞれの読み方はあると思う。死や浄土を実体的なものではなく、心的な境位(精神の糧)のように見る親鸞の考えは中心にあったが、吉本が人間的な存在や力としての幻想の問題を提起したことと関連している。幻想の疎外形態である宗教や国家(共同幻想)の批判とともに、幻想という存在を始末してしまった唯物論(マルクス主義)への批判としてこれはあり、幻想として人間を救抜したことに関わる。
 幻想的なものを実体的なものに還元する思考の批判は吉本の以前からのものであるが、その深められた過程が親鸞への論究の中にある。親鸞が死や浄土を実体的なものから切り離したときに、どこに根拠づけられるか。人間の幻想それ自身にしかないが、言葉の問題ということになる。易行称名というときに、いわば言葉に信を置くことだから、密教的な仏教修行よりは容易なことと思われるかもしれないが、幻想の本質に接近するのはこの方が難しいのだという逆説が語られている。親鸞はある意味では仏教者であるから、信に近づくとか信を得るとかにこだわる。僕らは幻想の本質を手に入れることになるが、身体的な行為や学究的な行為よりは自己問答においてそれを得るというように理解すべきであるように思う。吉本が文学の本質を沈黙も言語過程に置いたことを想起すべきかもしれない。
 もうひとつ、易行他力ということがある。他力とはどのように理解すべきか。宗教的には、信を得るために自力(自力のはからい)を頼まないということであるが、宗教的な立場にないと理解は易しくない。自力を、自己意志による信(幻想的世界)への到達というように考えたらどうだろうか。親鸞のいう「正定聚」のところに自力で行けるとは、意志によって到達できる、ということを意味する。現代の人間にとっては自己意識=自己意志こそが主体的なことであるから、世界との関わりもそのようにあると考えられている。確かに世界は自己身体の内に、自己意識の内にある。しかし、この場合の自己意識は個体意識や対の意識(男女関係の意識)のように自己身体の成熟に即して発展していくものではない。とりわけ共同の意識はそうではない。それは外から、言うなら歴史の方から自己意識の方にやってきて自己意識になるものである。『共同幻想論』の中で共同意識(幻想)の逆立が言われていたことを想起すればいいかもしれない。自己意識の生成の構造はこうなっているのである。自力=自己意志というように理解すれば、共同の意識には自己意志では近づきにくい。共同意識は外から、向こう側からやってくるものだから、他力をそういう文脈で理解すべきである。「正定聚」の位に達するには外からの意識の流れをつかむことが肝要なのであり、意志はその反省的契機において現れるのである。還相という言葉があるが、これは啓蒙的な意味で共同意識に向かう意識のことではない。外(歴史)からやってきた意識に対して反省的(対象的)になる意識としてあるのだ。浄土の視線、言うなら世界的視線は意志によって到達するものとしてではなく、外からやってくる意識に対して反省的になることで得られるものだ。意志は反省的に機能することで存在するのだが、世界的、全体的な視線を得ることの方法的な難しさを暗示している。

(10)世界を変える二つの契機はどのような関係に立つのか

 世界を変える二つの契機はどのような関係に立つのか。親鸞が易行他力を提起したときに考えられたのは「自然法爾」だった。絶対他力が自力を拒否した時に出てきた考えであり、自然にということだが、これは現在の人には分かりにくい。吉本がこの親鸞の考えを最後まで追いつめていったことは確かであるが、信じたのかどうかはわからない。思想者としての親鸞と宗教者としての親鸞の双方を考えながら留保していたところではないだろうか。
 世界を変える契機が大衆というか、生活者の動きにしかないことは、先ほどのマルクスの言の通りであるし、親鸞が「煩悩具足の凡夫」の世界に浄土の種があると言ったことと同じである。しかし、現実を変える契機には死からの視線、浄土からの視線が必要であり、ヘーゲルやマルクスの理念として語られていることでもある。
 現在ではこの二つの総合が啓蒙的な政治組織や運動で媒介されることは確かだ。近代的な運動の中で提起されてきたことは疑いないが、それらが有効に機能しないことは明瞭であるように思う。これは根底的にはマルクス主義の理論と実践、知と行の合一などの意志(意識)と身体を結ぶ思想が問題で、先に指摘した。共同幻想を超える観念力は観念的な力としてのみ存在しうるし、現実を超える運動は生活過程の内からしか出てこない。この二つの契機は簡単に総合しえないし、結びつけられもしない。その総合化として考えられた組織論や運動論は全部だめである。多分、吉本は『共同幻想論』を書いた後でもこのことを問題にしていたと推察できるが、納得の行く方法を考え得たとは思えない。吉本はこの二つを結ぶ方法として親鸞の『横超論』を検討している。
 横超というのは堅超に対する言葉である。横超という概念は別に修行などがどうかということではなく、ごく普通の人が一挙に最高の悟りの世界に行けるということである。これに対して堅超は仏教の修行をした人、つまりはそういう媒介を経た人がそこに行けるというものである。知識を媒介にするとイメージしてもいい。世界的視線、あるいは浄土の視線を得ることは知的媒介を持って、それを登りつめてではなく、普通の人が一挙に到達できると言っているのである。これまでの反体制的、あるいは左翼的な組織論や運動論はその意味では竪超論の系譜にあるものであるが、僕らが経験してきた運動、とりわけ全共闘運動は横超論的な片鱗を実感させた。ただ、この二つの契機を総合する考えは出てきてはいない。吉本の『マスイメージ論』には親鸞の思想的な探索があった。
(評論家)
(つづく)







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