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評者◆東野徳明(みどり書房桑野店、福島県郡山市)
その豹を過ぎて、稜線に登ったあたり――永井均著『哲学の密かな闘い』(本体2400円・ぷねうま舎)
No.3124 ・ 2013年08月31日




キリマンジャロは標高六〇〇七メートル、雪に覆われた山で、アフリカの最高峰と言われている。その西の山頂は、マサイ語で“ヌガイエ・ヌガイ”、神の家と呼ばれているが、その近くに干からびて凍りついた、一頭の豹の屍が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明し得た者は一人もいない。(アーネスト・ヘミングウェイ/高見浩・訳)

 子どもの頃、自分の中に見慣れない触感を見付けると、心の指でそっと触れて、壊れてしまわないように注意深く形を探った。形がはっきりしてくると、今度はその形が示すいくつかの角度から、いったいどんな場所に行くことができるのか、闇の中を手探り。あ、ここに径路がありそうだと気付くと、少し逡巡する。最初の触感から離れてしまうと、もうそこに戻れないかもしれないから。おそるおそる離れては戻り、思い切って羽ばたいてみてはさっと身を翻して、その先にあるものが最初の触感と引き換えになるくらい素敵な感じかどうか天秤にかける。そして思い切って跳ぶ。うまく着地できたら、その新しい場所の手触りを探り始める。そこからまたどこかへ。
 そんなふうにして心の中を飛び石伝いにどこまでも動いていくと、心の外のことはすっかり意識から遠のいてしまって、気付けばあたりは真っ暗で、空腹と消耗のあまり、すぐには立ち上がることができないのだった。
 経験と勘を頼りに、心の中を無闇に動き回っていた僕は、だんだん言葉を覚えるにつれ、非常に驚かされることになった。自分では、なんか神秘的で奥深い「特別なこと」をしているつもりだったのに、それは誰でもやっているありふれたことなんだと分かってきたからだ。心の中の場所から場所へ、形から形へ僕を運んでくれる、精妙な〈角度―径路〉のひとつひとつに、なんと名前が付いていて、世の中で普通に使われていて、国語辞典にだって載っているのだ。こいつはびっくりだ。僕は暇な時間があると国語辞典を読んだ。魔法の名前を集めた。暇な時間というのはつまり授業中である。授業中以外に国語辞典を読むほどには暇じゃなかった。
 自由課題の読書感想文に「国語じてんを読んで」というのを書いて先生に怒られた。だって国語辞典ぐらいしか読んでないんだものなあ。そのうちに、ふしぎな名前たちは、一定の分類に属することが分かってきた。それらはたいてい「副詞」や「接続詞」という仲間に入っていて、〈たとえば〉とか、〈あるいは〉〈そして〉〈なぜなら〉〈けれども〉〈もしも〉〈つまり〉というような名前のものたちだった。
 かれらの名前を呼ぶとそれだけで、意識を集中することもなく、微妙な角度を測ることもなく、羽ばたきもせずに心の中を移動してゆけるのだ。
 おぼろだった〈角度―径路〉たちの機能が鮮明になって、ああ、世の中で云う「筋道が立つ」ってこのことか、と思い当たった。
 植生にとって、東西は街道であり南北は険しい斜面だ。緯度に沿って伝播していくのは容易だが、経度に沿って広がるのは難しい。文明も軸になる作物に支えられているから、南北に伸びた大陸よりも東西に広がった大陸のほうが、ダイナミックな歴史を展開する。
 まだ目的も定まらないまま心を旅していたとき、いつも険しい方角を目指した。思い出と繋がらない方向。暖かい方よりは寒い方。寂しい方。ひたすら高い方を。
 筋道が立っていない分、倫理や常識の重荷はいずこ、とても身軽だったが、それでもぎりぎりまで行くと息が続かなくなり、冷え切って気が遠くなって、現世に還ってしまう。
 僕の心の高みには、凍結した豹の死骸が、いくつも残った。
 長じて考えることの技術と装備を身につけて、豹より先に進むこともできるようになった。けれども、ひときわ高みにいて、そこを越えれば広壮な眺望が開けるであろう稜線が見えるのに、しかしどうしても越えることのできない凍豹があった。何度挑んでも果たせない。
 ある時、その豹の向かおうとする鼻先、硬い雪の上にことんと、一冊の本があった。拾い上げてみる。著者名のところには永井均。十七年前のことだ(あれから十七年しか経っていないことに、いま驚いている)。







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