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評者◆池田雄一
付き合い方のわかる男
No.3123 ・ 2013年08月17日




 ――参院選が終って少し経ちますが、まるで遠い過去のできごとのように思えます。
▼あれは、選挙そのものが、ポストポリティクス的な状況におかれているということでしょう。「捻れ」の解消とか言っているんだから。選挙が行政のひとつになっている。たとえば「アベノミクス」という言い方があるけど、あれは政策のキャラ化とでも言うべき現象として理解しないと。「アベノミクス」って「レーガノミクス」の反復でしょう。
 ――哲学の領域で言うと、最近みられる、ネグリ/ハートから、ドゥルーズ/ガタリへの逆流現象とも関係しているんでしょうか。
▼知らないよ。でもたしかに、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)、山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学――超越論的経験論の生成と構造』(人文書院)と、若い哲学者が、ほぼ立て続けにドゥルーズについての本を出した。そしてふたつとも、ガタリについても論じている。ドゥルーズって、日本に紹介された当初は、その固有名自身が、商品としてフェティッシュされているような印象があって、どこか偏見があった。いやあるでしょう。そういう印象が、江川隆男氏が出てきた頃から変わってきた。國分氏と山森氏は、その流れを継いでいるような気がする。「現代思想」でもガタリの特集が組まれていたし、ドゥルーズとガタリを読む文脈が熟成されてきたんじゃないの。
 國分氏の『ドゥルーズの哲学原理』は、まず語り口にすごくキレがあった。あえてドゥルーズのような語りとは逆をいく、散文的な語りによって、ドゥルーズを論じ倒していく。何だかドゥルーズとの果し合いみたいな感じだよね。この本では、ドゥルーズの自由間接話法的な語りが、かなり徹底して分析されている。たぶん論旨としては、ガタリとの出会いの時期を扱った第四章がヤマなんだけど、個人的には、第二章の超越論的経験論を扱った部分が、いろいろ参考になった。とくに、「性格」と「対象」についての、フロイトの議論のあたり。とにかく熱い本だよ。
 國分氏が、果し合い的な感じで論を進めていくのに対して、『ジル・ドゥルーズの哲学』の山森氏は超越論的経験論のみに焦点を当てている。かなり丁寧に議論を組み立てているんだけど、その分、何というか、読んでいると哲学という牢獄に閉じこめられる、という印象がある。
 そんな空気を事前に察したのか、最後に「おまけ」としてガタリ論が入っているんだけれど、これがなかなかいいんだよね。彼は「現代思想」にもガタリ論を書いているんだけど、個人的にはそれが一番よかった。
 ――そろそろ小説の話にいきますが、青木淳悟が野球について書いていました。
▼「すばる」に載っていた「激越〓プロ野球県聞録」でしょう。これは、おそらく『このあいだ東京でね』(新潮社)や『私のいない高校』(講談社)に見られるような、非人称的な語り、というか人物なしの小説、というか非全体的な物語とも言えるような、一連の試みに含まれる作品だよね。今回はプロ野球と新潟を題材にしていて、固有名詞でずいぶん遊んでいる。
 この青木淳悟的なアイロニーというのは、決して人を怒らせない。ただ労働するのが嫌になるだけ。テレビで言うと、「タモリ倶楽部」的なところがある。本人の顔が安斎肇に似ているだけかもしれないけど。
 ガタリと言えば、渡部直巳の『言葉と奇蹟――泉鏡花・谷崎潤一郎・中上健次』(作品社)が出て、書評のために改めて読み返したんだけど、やっぱり初期の泉鏡花論は面白かった。
 ストーリーにもプロットにも換言されない、言葉が持っている自律的な反復のパターンを抽出して、それを空間的に配置し直している。このパターンをつくっているのは、言語における「近接」と「類似」の法則なんだけど、近接にしても類似にしても、言語のイメージのようなものの存在が前提になっているでしょう。そうなると、これ以上さきに進むには、ガタリと同じようにパースの記号論なんかを参照したくなる。
 ――印象としては、今回の文芸誌には、震災を扱った作品が多かったように思えますが。
▼「すばる」には多和田葉子の「動物たちのバベル」が載っていて、これは戯曲なんだけど、主役が動物ってところからも分かる通り、完全にアレゴリーとして書かれている。もちろん大地震についてのだけど。作品では、謎の事故だか災害が起きて、人類がいなくなってしまった後の世界を寓話的に描いている。
 こんな感じで、完全に寓話にしてしまうという方向で震災を描くというのが、ひとつの方法として定着しつつある。「激越〓プロ野球県聞録」も、直接出てくるのは三月一一日の震災ではなくて、中越地震が登場する。あの作風だとアレゴリー以外の登場の仕方は考えられないんだけど。
 今回の他の作品では、佐藤友哉の「ベッドタウン・マーダーケース」(「新潮」)が、やはりアレゴリーとして大震災をとりあげていた。前半の、作品世界を開いていく部分は、ポスト原子力災害の状況というものを何とか構築しようという緊張感があって引き込まれた。後半は、ややだれてくる。そして最後の部分は評価が分かれるだろうね。ポスト原子力災害のアレゴリーから、現在の放射能をめぐっての言説にたいしてのアイロニーへと変換されている。
 これはもちろん、ゼロベクレル派のように、放射能にたいしての態度がはっきりしている人がどう読むのかという問題もあるけど、アレゴリーとアイロニーは併存できるのか、アイロニーであるようなアレゴリーは可能なのかという問題でもある。そういう問いを開いたという意味では、無視できない作品ではある。
 ――今回は「文藝」の作品もありますが、どうでしょう。印象的な作品もあったようですが。
▼そうそう。松田青子の「英子の森」(「文藝」)は二段構えになっている小説だよね。夫を亡くして不満な人生を送ってしまった高崎夫人が、それを取り戻すため、娘に英語を習わせる。習ったはいいんだけど、英語を使える仕事なんて実際にはそんなになくて、娘は非正規雇用の労働者として、職を転々とする生活を送っている。ありがちと言えばありがちな「自己実現の怪談話」みたいなストーリーのラインと、母と子の関係の象徴として、場面場面を埋めている「お花畑みたいな森」の情景の二層構造。この森は、読んでいると女性の下着売り場に迷い込んだような気分になってくる。こんな気分になる小説というのは初めてだ。
 ――伊藤たかみ「冷蔵庫の奥の形見」(「文藝」)は、それと好対照な作品ですね。
▼うん、これもいい小説。伊藤たかみは、たしか今年四二歳だけど、その歳だと同級生が病気で亡くなることもあるだろうし、親も介護が必要になったり、亡くなってしまっていたりする。いわば、死とか老いというものが身近になってくるわけだ。若いと、人が死ぬということに対して、ホラー的なというか実存的な物語が入ってくるんだけれど、この小説は、そういったものをきれいに消している。死という観念との付き合い方を分かっていることが、この作品を豊かなものにしている。死を、まるで「近所の変わった人」くらいの扱いで描いている。これは書き手の力量がないと絶対にできないことだと思うし、伊藤たかみもいい歳のとり方をしたんだと思う。
 ――まったく余計なお世話だとは思いますが。それよりも「群像」には先日芥川賞を受賞した藤野可織の「8月の8つの短篇」が掲載されていますね。
▼「爪と目」は「新潮」掲載時にこの連載でも取り上げたけど、受賞は順当な結果だと思う。この「8月の8つの短篇」は「百物語」的な八つの怪談の短篇集だよね。八篇のうちでは、おそらく「ホームパーティーはこれから」が軸になっている。たとえば、人は何のために生きるのか、という話になったときに、たぶん「幸福」と「納得」とに分かれると思うんだけど、この二つの選択肢って、対照的な関係になってないんだよね。幸福のために生きるにしても、「自分は幸福だった」って納得するために生きるわけだから。それは幸福な状態から疎外されることも意味する。幸福だと納得すればするほど、幸福からは遠ざかっていくんだから。このズレをズレとして放置するというのが、藤野可織の物語的な戦略で、「爪と目」では、このズレというのが、語り手である私と、語りのなかにいる私とのズレへと転移している。あらためて確認すると、この小説は、辛気くさい女児の話なんかじゃなくて、むしろこうしたズレというかアイロニーがもっている自由についての物語なんです。だから、「爪と目」は燃えながら疾走する猫の物語とセットで読まないと駄目なんだ。
――つづく
(文芸評論家)







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