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評者◆三上治
少年期の文学を書くという中上健次の決意――少年期の世界とは感性的なものの存在基盤のある世界である
No.3121 ・ 2013年08月03日




(5)『岬』まで

 中上が『岬』で戦後生まれとしては初の芥川賞を受賞するのは1976年のことである。彼が新宮から上京して既に十年以上の時間が経ってはいるが、その前半の5年間は彼のいう「履歴書の書きようのない時期」であり、その後の5年間は文学的な飛躍が準備される時期だったといえるだろう。中上はフーテンとも、予備校生とも、ニセ学生的ともいえる放浪的な生活の中でも文学的な修業を続けていた。前半は『文芸首都』の会員(同人)としての活動が主な舞台であったのだろうが、後半は若い作家として期待もされるようになっていた。1973年に『十九歳の地図』が、1975年には『鳩どもの家』、『浄徳寺ツアー』が連続して芥川賞候補作品になったことがそれを示しているといえる。
 彼は1970年の7月に結婚し、金を稼ぐために貨物の積み下ろし業務などに勤しんでいた。放浪的な生活は彼の不可避な、いわば宿命的な過程であったのかもしれないが、そう長く続けられるものでもなかった。これは僕の想像ではあるが、彼は新宮から上京後の生活を脱して、心身が落ち着く生活をどんなに憧れたであろうかと思う。これを可能にしたのがこの時期の生活だったのではないだろうか。彼は意志的な選択として放浪的な生活を選んだというよりは、資質も含めた契機がそう導いたのだとはいえ、同じ生活は続けられる条件はもうなかったのではないか。家族との関係もあったのだろうが、生活問題や女性問題が彼にも訪れていて、その対処が迫られていたのである。誰にも現れることだったに違いない。学生運動やその周辺の運動家が生活や女性問題で悩み、ある種の転換を迫られることと似ていた。彼が文学をめざしていても事情は同じであり、その意味では結婚し、家計のために稼ぐということは大きいことだったのだ。そんな生活にはおさまらないのが中上の存在であったにせよ、こういう時期も必要だったのである。
 「収入は、肉体労働だから、同じ年頃のサラリーマンの一・五倍はあった。女房、子供は養えた。時間もあったから書くこともできた。だけど、書いても書いても没なんだ。『十九歳の地図』まで二、三年かかったかな」(データバンクにっぽん人 中上健次)
 彼はこの間、勤務の時間の合間に喫茶店などで多くの作品を書いていたようだ。子供もできて、彼は死んだ兄の年齢を超えて生きていくという秘かな思いを達成できたことに内心の安堵を得ていたのかもしれない。が、女房が家を出ていくかたちになって、また放浪のような生活を繰り返すことになるが、この時期の生活はやはり重要であったように思う。彼の文壇デビュー作といわれる「一番はじめの出来事」が雑誌『文藝』に発表されるのは1969年であり、新進の作家としての期待もあったろうから、書いても没というのはきつかったには違いない。でも、『岬』以降の展開には必要な時期であったといえる。

(6)中上の70年代前半

 中上は学生運動の周辺にあって、早稲田のブンド系の活動家たちと、羽田闘争(学生たちがヘルメットを被り、角材を持って警官と対峙した最初の闘争)や王子野戦病院闘争などに参加していたことは既に述べた。この時に彼が何を考えていたかは『灰色のコカコーラ』、『十九歳の地図』、あるいは『黄金比の朝』でも窺えるが、彼は全共闘運動よりは反戦闘争と呼ばれていた政治闘争の方に多くの関心を持っていた。全共闘運動は学生の運動に過ぎず、革命に直結するのは政治闘争だと思っていたと後年に語っていた。角材やヘルメットで武装した政治闘争も、大学をバリケード占拠した全共闘運動も、1968年を頂点に後退期に入る。この時期に彼が同伴していた早稲田の学生グループは、第二次ブンドからの赤軍派の登場をめぐる問題に巻き込まれ、分裂状態になっていた。このことは彼が直接的な運動や行動から身を引いたことにも関わったのであろうが、それでも赤軍派や東アジア武装戦線などの行動には関心を持っていたのだと思う。そして、この時代に行動し関わったことを反復して考えていたのであり、それは文学的な転生に関与していた。
 彼は1968年に「角材の世代の不幸」という短いエッセイを書いている。『新潮』に書かれたものだが、この中で少年期の文学を書くという決意を語っているのが印象深い。
 「僕はいまでもその動機のひとつ、羽田なり、王子なりで暴徒のひとりとして手渡された角材を持った時の、僕自身の喪失感ともいうべき感情を考えているくらいである。何が僕たち暴徒をささえていたのか? と考えるのである。ゲバ棒とよばれる角材を持ち、ヘルメットをかぶり手ぬぐいで覆面をしていわば匿名のままゲバルト(実力)闘争に加わった僕が抱いた喪失感はなんであったか? と考えているのである」(「角材の世代の不幸」『新潮』1968年11月号)
 ゲバルト闘争といわれたものに参加するものの内的(精神的)動きを喪失感として析出しているのは鋭い。この闘争には革命とか暴力闘争とかの急進的な理念や言葉が与えられていた。しかし、行動に加わる者の意識はこれを信じていたわけではない。行動する個々の内在的意識は高度化する表出感覚であり、自由の感覚であるといってもいい。この内在的意識と急進的な理念や言葉は乖離していて、矛盾として鋭く意識されていたのである。中上のように「喪失感」といっても矛盾はしない。何故なら、この表出感覚は社会的な言葉と対応せずにあり、それは孤独といっても、空虚といっても、喪失感といってもいいものであったのだ。
 政治にせよ、文学にせよ、表現(行動)には表出意識と表現の意識(理念や言葉)が不可欠であるが、その乖離や矛盾は誰しもが意識せざるを得ないものとして表現者や行動者には映っていたのである。中上がいう喪失感とは理念的な世界の喪失感である。この喪失感(空虚感)を理念(社会言葉)の過激化(急進化)か、言葉の肉体化かの方法で埋めようとしたのが当時の流行りだったが、それはこの喪失感を解消するものではなかった。
 中上がゲバルト闘争に加わった時に主体の意識としての喪失感を自覚しえていたことは大事なところであって、それは彼のいう少年期の文学を書くという決意に連なった。少年期の世界とは感性的なものの存在基盤のある世界である。それが可能になるまでの準備時期として、70年代の前半はあったのだと思える。
(評論家) 







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