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評者◆パルナ書房・久野敦史
京都の有名書店はなぜ閉店に追い込まれたのか──書店の永遠のテーマ「棚と経営」を考える
No.3114 ・ 2013年06月15日




▼京都のJR丹波口駅前の書店・パルナ書房が4月25日に閉店した。出版業界では「時代小説のパルナ書房」として名が通った同店がなぜ閉店することになったのか。代表取締役の久野敦史氏は、日本のマクロ的な社会状況の変化やインターネットの普及、近代家族という問題が相まって閉店という「決断」を余儀なくされたと言う。その話を聞く一方で、書店が抱える永遠のテーマ「棚と経営」という問題も改めて浮き彫りになった。ここではパルナ書房の生い立ちから閉店までの経緯を辿りながら、「棚と経営」について考えてみたい。


◆第1部 パルナ書房の歴史

 パルナ書房は、1945年の終戦直後に久野敦史氏の祖父が創業した新刊書店。敦史氏は1996年、父の他界後に3代目として事業を継いだ。「どうして祖父が本屋を始めたかは聞いていない。当時の記録がないので、祖父の代のことは分からないことが多いが、京都・西院の六角にあった長屋の一角で本屋をやっていた。しかし、祖父が亡くなってパルナ書房は83年に一度、店を閉めることになった」。
 敦史氏の父は、祖父の書店を継がずに、立命館大学を卒業して京都市役所に勤めていた。管理職の任にあった85年頃、中間管理職のストレスに嫌気が差して早期退職を決意。同年、退職金を元手にパルナ書房を復活させた。吉祥院の八条通り付近で八条店を開店、その1年半後にJR丹波口駅前に2店舗目となる五条店をオープンした。その後に河原町に「マップラン」という地図の専門店まで出店し、パルナ書房は3店舗を構えることに。しかし、八条店とマップランは開店から3年後に閉店、五条店だけが残った。
 「八条店は15坪程度で月商300万~350万円くらいあったが、赤字でも黒字でもない、ちょうどトントンの店だった。当時の書店業界は右肩上がりで売上も利益も上がっていたから、それと比べると儲からない店だったので閉店したようだ。問題はマップラン。山登りが趣味だった父が肝いりで出店したが大赤字、3年で3000万円もの借金をつくった。しかし、五条店が好調だったおかげでその借金も10年以内で返済することができたようだ」
 当時の五条店はまさに金のなる木。売場は20坪ながら月商は700万~800万円、粗利は3割もあったという。売上が良かったのは、近隣に建設された京都リサーチパークの集客を見込んでいたからだ。90年代にアメリカのシリコンバレーを模したベンチャー企業の集積地として、大阪ガスの主導で建設された同施設は、パルナ書房の面する五条通りを西に徒歩約5分に立地。従来の島原地区の住民や駅近くの中央市場の客に加えて、オフィスに通う会社員を取り込んで安定した売上を上げていた。
 また、粗利率が高かったのは開業から導入していたコミックレンタルによるもの。「当時流行っていたレンタルビデオに父が目を付け、コミックスの既刊本をレンタルしていた(最新刊は販売)。もちろん、レンタルに使用した本は返品していない。当初はパソコンもなく手書きのカードをつくって貸出・返却を管理していた。その後はレンタル用のシステム機器を導入したが、『ドランゴンボール』の1冊の総貸出数が6000回転にも上っていた。1冊360円のコミックスを60円で貸出していたから、相当儲かったようだ」。
 敦史氏の父が経営していた時期は85~95年。雑誌やマンガなどがけん引し、出版業界の売上は右肩上がりで上昇し、「本は置けば売れる」と言われていた時代だ。それゆえ、取次の日販から送られてきた雑誌・書籍・コミックスは、ただ棚に並べるだけだった。書籍も近くにあった日販京都支店の店売に毎朝仕入れに行くだけで、補充・追加注文は一切しなかったという。
 順風満帆だった同店に最初の陰りが差し込んだのは95年1月の阪神・淡路大震災、そして11月に近隣の堀川五条に出店したブックオフの存在だった。売上が減少し、翌96年3月頃をめどにリニューアルを決断した。その矢先に父が末期ガンであることが判明、余命わずか1カ月半と医師の告知を受け、その年の5月に敦史氏の父は急逝した。「入院してから1カ月はぴんぴんしていた。そのときに経営のこと、とくに資金繰りとか、店のリニューアルの算段とか、何も分からなかったので父に教えてもらった。父が亡くなって法要を終えて、8月末に改装に着手し、9月にはリニューアルオープンを果たした」。
 リニューアル後は、POSレジを導入して新刊書とベストセラーを置く、よくある新刊書店となった。ブックオフによる単月のマイナス成長はこのリニューアルによって96~98年の3年間は年間売上がプラス成長となった。出版業界がマイナスに転じた97年以降も前年比5%程度の売上高を計上し、98年にはピークを迎える。この年の月商は約900万円にまで上昇。粗利率は22%と以前より落ちてはいるものの、売上増によって粗利額はレンタル導入時のピーク時にまで回復した。収益面では、まさに絶頂を迎えていたのだ。
 それもつかの間だった。99年から歯止めのかからない売上減少が始まる。96年に店を継いだとはいえ、敦史氏が同店に入ったのはそのわずか1年前。それまで、保険会社などで会社勤めだった敦史氏は書店に関する知識は素人に毛が生えた程度だったという。確かに、日販の協力もあり、リニューアルは成功した。しかし、その成功はあくまでスタイルを変えたことによる一時的なものだったと見ることができる。つまり、それまでの店舗がPOSデータから算出される売れ筋を置いていない、言うなれば売上を得るセオリーを無視していた状況だった。それゆえ、売上は上昇気流に乗った。
 しかし、99年からのマイナス基調は皮肉にも、POSデータによる全国平均の売場づくりによって、もたらされたのではないだろうか。
 とくに、街の本屋の店売は、雑誌とコミックスで売上の7~8割を占めるといわれる。99年以降の失速の主要因は、業界的な雑誌の売上減が同店にも顕著に表れたからとみられる。「98年以降のインターネットの普及によって、客は時間を奪われるようになった。それと同時に店頭に並ぶ雑誌の種類がパソコン情報誌などに代わっていった。その後は競合店とは関係なしに情報系の雑誌の売上がトコトン落ちていった」。
 2003年まで売上は落ち続け、ついに月商はピーク時の半減となる500万円を割ってしまった。このとき、敦史氏は本気で廃業を考えた。
 「しかし、04年に日販の担当者のI氏に『お店に来る客は雑誌とコミックスしか買わない。文庫はそのままでいいが、ハードカバーの書籍は動かないからすべて返品してコミックスを入れないか』と持ちかけられた。責任をもってコミックスを入れると言われ、その“責任”という言葉に打たれて提案を受け入れた」
 この提案がその後の同店を左右するきっかけとなった。
 書籍を返品してガランと空いた棚。敦史氏が当時のアルバイトの女性に「好きなように棚を使っていいよ」と言うと、エドワード・ゴーリーやエロール・ル・カインなどの大人の絵本を面出しで陳列。敦史氏も警察小説やアングラなどのテーマで本を集めて棚をうめた。
 すると、一部の客が「棚を変えましたね」などと反応した。まとめて複数冊買っていく大人買いの客も表れ始めた。日販のI氏も「これは面白い」と共感し、このまま売場を続けていくことになった。気づけば、3カ月後に売上はプラスに転じていた。
 「それからガケ書房や恵文社一乗寺店など、いわゆるセレクトショップと言われる店を見て回った。そこで棚をチェックしていたら、例えば廃墟というテーマで置いてある本が、うちと同じ本だったことに気がついた。それでアマゾンでチェックしみると、ほぼ同じ銘柄が検索できた。テーマ別に特化した棚づくりの選書はすでにデータベースとして出来上がっていると分かり、このままいけばいずれ壁にぶつかると感じた」
 そう思ったものの、急には新しい策も見つからず、まずはデータベース化されていないであろう郷土本などのジャンルを追求していった。その間に取次・出版社・地元マスコミなどによってこうした棚づくりが評価され始めた。その一方で、あまり書籍を読まない自分自身に「マンネリ化」と「限界」を感じるようになっていた。そこで閃いたのが、「歴史」というキーワード。「歴史が好きなのだから、それに特化した売場を構築できないか」と考えた。時代小説のパルナ書房の始まりであった。
(第1部了)







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