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評者◆池田雄一
歌川百合枝の人面疽に食いちぎられる、多崎つくるの第六の指
No.3113 ・ 2013年06月08日




 ――村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(※以下『多崎つくる』)(文藝春秋)が例によって異常な売れ方をしています。
▼彼の場合は、作品そのものとセールスを分けて考えないと。セールスの方で考えると、村上春樹というのは、いわゆる「ニューエコノミー」の象徴と言える存在でしょう。新作の発売そのものが劇場化して、「この波にのることが現代を生きることだ」みたいな物語にあっけなく捉えられる。そんな人たちが村上春樹の新作や、『KAGEROU』なんかに飛びつくわけだよね。
 そうは言っても、この作家像を、何かしらの象徴として解釈できないこともない。彼の本が売れるというのと、たとえば近年における空前のランニングブーム、空前の自転車ブームというのは、どこかで繋がっているでしょう。もともとこのふたつは、変人がやるものと相場が決まっていたのに、何でこんなに流行るのか……。
 ――村上春樹自身がランニングやサイクリングをしているということでしょうか。
▼その世界では、彼はむかしから有名人だからね。ここで問題にすべきは、村上春樹やその他の人々がやっている、ランニングや自転車といったエクササイズが、どのような種類の快楽をもたらすのか、ということでしょう。
 思うに、村上春樹という存在は、功利主義のイデオロギーを体現しているのではないか。ポストモダン的な状況では「大きな物語」が消失するということになっているけど、じつはその結果として、功利主義という巨大な物語が君臨している。彼を語るには、まずこの状況を考えないと。
 ――功利主義というのは、例の「最大多数の最大幸福」ってやつですね。
▼ベンサムの功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を目標とする思想だよね。ところが、この目標を実現するためには、個々人の幸福を実現することを断念することが求められる。つまり功利主義の理念には、あらかじめ幸福の断念が組み込まれていることになる。幸福が快楽の集積だとすれば、それは快楽の断念でもあるわけだ。
 村上春樹のエクササイズというのは、この快楽を積極的に否定することによって得られるタイプの快楽だと思う。
 ここで作品の話にうつるけど、村上春樹の長編って、ロマンスの物語形式に、うっかり迷いこんだ現代人、という印象があるよね。たとえば今回の『多崎つくる』の主人公にしても、ヒーローになるような要素は、まったくない。ただの社会人だよね。これは近代小説の王道とも言えて、ようするに社会的なペルソナを被った人物だということになる。
 じゃあ高校時代につるんでいた他のメンバーはどうかというと、こちらは「キャラ」なんだよ。この小説は、キャラ対ペルソナという異種格闘技的な要素をもった作品なんだ。キャラとその本体とのあいだには、必然的な関係はない。その意味でキャラというのは記号なんだ。このキャラたちは、自分たちを下支えする本体が、じつは存在しないということを知っている。彼らは、多崎つくるとの関係性でしか、キャラを維持できないんだ。
 挿話的に多指症のことが出てくるけれど、四人と多崎つくるの関係は人間の指にも置き換えられる。多崎にあたるのは、親指だよね。他の指は、この親指に向かい合うことによって、はじめて機能する。そうなると、六本目の指という不気味な形象に相当するのが誰なのかは、もはや明らかだよね。
 そういえば、「新潮」に四方田犬彦「谷崎潤一郎――映画と性器表象」が載っていたけど、これが力作だった。これは谷崎の「人面疽」をおもな題材にしている評論なんだけど、人面疽というのは、もともと映ってしまうことの恐怖、というか存在論的な不安を描いた作品なので、そのまま映画論にもなっている。そういえば手塚治虫の『ブラックジャック』で、人面疽がでてくる話があるんだけど、取り憑いた先が、顔面だったので、人格が豹変してしまう、という話があったな。変化球すぎて、全然怖くなかったけど。
 それはそうと、この評論は「人面疽」の紹介の仕方が面白かった。普通に要約しているだけなんだけれど、読んでいるとヘンな気分になる。考えてみれば、要約って、おかしな行為だよね。要約できるのはストーリーだけでしょう。プロットは説明ならできるけれど要約はできない。つまり、要約というのは、たんに知的な行為というわけではないんだ。
 谷崎がもっている語りそのものが要約という行為と似てるんじゃないか。あの語りって変な感じするでしょう。その辺りを四方田は拾っているような気がする。
 この要約的な語りと対照的なのが、山下澄人「砂漠ダンス」(「文藝」夏号)でしょう。たとえば、だれかが自分の手を見るとする。これって自分という存在が複数化する契機でもあるよね。見ている自分と見られている手が分裂するんだから。
 でも、だいたいは「これは俺の手だ」というふうに、所有関係へと回収されるでしょう。でもこの作品はそうじゃなくて、この見られている手に名をあたえて、実体化させているような印象がある。ここにでてくる「男」というのは、そういうもんでしょう。つまり山下のこの小説からは、一種の命名行為のようなものが読みとれる気がする。ただの幻想的な話というのとは訳が違う。
 あと「文藝」では、木皿泉の「夕子」が、やたら丁寧なんだけど,丁寧な分だけ怖いような、妙な読後感のある作品だった。もうすぐ死ぬであろう主人公に、自分の人生を総括させる。それだけで何だか怖い話にみえてくるから不思議だよね。
 ――女の生き様ということでは、松波太郎「サント・ニーニョ」(「すばる」)とも重なる点があると思いますが。
▼これって、何で面白かったのかを説明するのが難しい小説だよね。もともと彼の持ち味って、ユーモラスな表層の奥に隠されている人間の根源的な「イタさ」を描いていくところにあるでしょう。近年の作品は、そのイタさが全開になっている。「東京五輪」とか。
 主人公の女性が、生きていることそのものが労働みたいな状況におかれているなかで、より巨大な台風を求めてフィリピンまで旅する話なんだけど。その話を回していく語りが、独自というか不思議なんだよね。
 この語りというのが、台風を求めて旅する過程でおきた出来事と、それに対してのコメントというかツッコミで形成されているようにみえる。みえるんだけど、実際に読みとれるのは、状況に対してのツッコミというような能動的なものではなく、むしろこの主人公が複数の声に占有されているという事態のようでもある。主人公がこれらの声を所有しているのか、これらの声に占有されているのか、判断が宙づりにされたまま、物語のクライマックスであろう、台風との「出会い」に突入するわけだ。
 このクライマックスにおいて、主人公が台風に対しても能動的でありかつ受動的な関係に立っている。結局のところ、この女性は、自身にこだまする複数の声との、あいまいな関係を何とかするため、巨大台風とのセッションを試みるべく旅にでた。これら複数の声の嵐にくらべたら、普通の台風は小さすぎるんだ。このセッションのあと、不妊治療をつづけていたこの女性に、はじめて子どもができるんだけど、ここで女性は、それまでの臨床的、解剖学的な視線による占有状況から解放されることになる。そう考えると、この小説では、かなり複雑な操作がなされていることがわかるよね。
 あと津村記久子「給水塔と亀」(「文學界」二〇一二年三月号)が川端康成賞をとったけど、何だか怖い話だった。何が怖いかって、田舎に帰った男が、完全に充足しているあたりが。
 ――今月は「文學界」と「群像」の新人賞発表の月でしたが、「文學界」は受賞作なし、「群像」の小説部門は波多野陸「鶏が鳴く」に決まりました。
▼「鶏が鳴く」は、読み始めた段階では「大丈夫かなこれ」みたいな感じでハラハラしていたんだけど、読後感は意外と悪くなかった。理由はわからないけど。
――つづく
(文芸評論家)







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