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評者◆三上 治
吉本隆明のマルクス自然哲学理解の核心──唯物論か観念論かという論争に決着をつけた
No.3109 ・ 2013年05月04日




(3)死についての認識が特異なマルクス自然哲学

 吉本はマルクスの思想の総合化として、ある意味では定式化されてもいた史的唯物論や唯物史観とは違った方法をとった。それはマルクスの思想の構成を三つの総合として見たことである。人はレーニンの『マルクス主義の三つの源泉』を思い浮かべるかもしれないが、これとはもちろん違っていた。レーニンのこの本はマルクスの思想を簡潔に要約したもので、僕らは学生時代に読まされたし、学習会などのテキストとしても使った記憶がある。
 吉本によればマルクスの思想は法や国家という幻想の領域、これの起源にありながら対立する市民社会領域、これらを自然哲学によって結び付けた体系ということになる。このことを彼は『マルクス紀行』の中でマルクスの三つの道として抽出している。上部構造と下部構造、それを唯物論的哲学で総合化しているのがマルクス主義の世界認識の方法で、これと似てはいるが外観上のものに過ぎない。吉本のマルクスの自然哲学への論究は『経済学・哲学草稿』やイエーナ大学の学位論文である『エピクロスの自然哲学』に言及され、いわゆる『ドイツ・イデオロギー』は避けられているように思える。広松渉などが『ドイツ・イデオロギー』にこだわったのとは対照的だった。
 マルクスの疎外や自己疎外という概念が自然哲学から生まれた概念であり、市民社会の構造を解明する経済学のカテゴリーとして生まれたのではないことを吉本は強調している。疎外や自己疎外は人間と自然の関係の概念であり、言うならば普遍的なものだが、市民社会での疎外は疎遠という意味あいになる。前者は社会の制度の変革と関係なく存続する概念であるが、後者は社会の制度が変われば解消するものである。自然哲学における疎外や自己疎外は人間が全自然を非有機的身体(人間的身体)にし得る人間の特性としてあるものだが、その根底は人間が同時に本来の自己(自然)からも疎外態としてしか、つまるところ自然な形では自然と関係できないというところにある。マルクスの自然哲学は人間を自然の一部、あるいは人間と自然の関係を自然的な連関としているわけだから、この人間的特性をどのように概念づけるか、思想的に位置づけるかが問われる。
 吉本は『経済学・哲学草稿』でのこの疎外や自己疎外についての考えがエピクロスの自然哲学から影響を受けているとしている。特に〈霊魂〉という概念である。人間は感覚的な存在だが、感覚の主な原因は〈霊魂〉であるとするのがエピクロスの考えである。
 「第一に〈霊魂〉が微細な物体であるという概念、そして第二にこの物体が身体にくまなく分布され囲まれているという概念は、自然が人間の〈非有機的身体〉となるところに人間の本質があるというマルクスの〈疎外〉の概念を生きたままうつしている。」(吉本隆明『マルクス紀行』)
 〈霊魂〉は微細な物体であるとされるエピクロスのアトミズムは、マルクスの中でフォイエルバッハの意識の自然性と人間性の考察を現存性(媒介)にして蘇生したのだというのが吉本の理解である。霊魂を精神や意識に置きかえるためにフォイエルバッハの意識の考察などを媒介にしたのである。人間が自己を本来の自己から疎外態にしてしか自然(自己も含めた)と関係できないというところが吉本のマルクス自然哲学理解の核心だが、この自己を疎外態にすることは対象的に、また自由にという生命的活動にほかならないのである。これを観念論は観念としての人間の活動として取り出してはきたが、人間の存在が自然であり、自然的存在であることを位置づけられなかった。ここが唯物論的な批判を受けてきたところであった。そして唯物論は観念論批判と一緒に人間が自己疎外態において産出する世界を疎外(始末)してしまった。本質的な形では析出できなかったのである。
 1960年代にはまだ、唯物論か観念論かという思想的な論争は残っており、どちらも決着がつかないままあり、僕らは大体のところ唯物論の徒であった。観念論はブルジョワジーの哲学と言われてきたこともあるが、観念の哲学はヘーゲルで完成していてその批判が時代の流れを形成していたこともあった。それでも唯物論に対する疑問はあった。人間の意識の世界を対象化し得ないこと、それに歪みのあることを感じていたからだ。吉本のマルクスの自然哲学の抽出はこの疑問に対する解答にもなっており、唯物論か観念論かという論争に決着をつけたと言える。人間が自然の一部であり、自然存在であるというのは唯物論が依拠してきたところであり、自己疎外というのは観念論が根拠としてきたところだからである。どちらでもないのであり、どちらでもあるのだ。
 マルクスの自然哲学で特異なのは死についての認識である。人間の存在が個体に宿命づけられている限り、個体の死は人間の死である。個体の消滅は人間の消滅である。そうであれば、人間の自己疎外態とされた存在はどうなるのか。個体の消滅で世界が終わるのならば、この自己疎外態は存在することができないのではないのか。人間の対象的活動、意識的活動は自己に対してだけでなく、種属(類)に対して存在する。動物が自己に対する意識や感情を持ちえても種属(類)に至らないのに対して、人間はそこに至る。だから人間の対象的活動は類的な活動なのである。これは人間の自己疎外態としての存在、つまりは生や死に関係するのである。人間が本来の自然から自己疎外態にした活動において在ることは、類としてあることであり、個体の消滅に関わらずに世界が存続していく根拠にもなる。「死は、個人に対する類の冷酷な勝利のように見え、また統一に矛盾するように見える。しかし、特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきものである」。マルクスの『経済学・哲学草稿』の中に言葉は人間の自己疎外という活動と関連するものであり、その意味で自然哲学のカテゴリーから不可避的に出てきたものである。作為や想像されたものとしてしか存在しない人間の意識的な死は、死において経験できないものであるのなら、死は存在しないとも言える。こうした死の考察はマルクスの自然哲学のカテゴリーから出てきた死の認識とは違う。吉本はそこでマルクスの死の認識を人間味のない評としないようにと語ってもいた。
(評論家)
(つづく)







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