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評者◆池田雄一
ハードウエアにこき使われる俺たちって……
No.3109 ・ 2013年05月04日




 ――先日、ネグリがついに来日しましたね。来日にあわせたかのように『叛逆――マルチチュードの民主主義宣言』(NHK出版)も出版されました。昨年末には、A・ネグリ/M・ハート『コモンウェルス――〈帝国〉を超える革命論(上・下)』(NHK出版)も出ています。
▼『コモンウェルス』は、まるで「帝国」三部作のレジュメみたいな本だった。ネグリの本は年々レジュメ化しているような気がするけど。いろんな思想家が、帝国に対抗するマルチチュードによる革命という巨大な物語のなかに、無駄なく配役されている。オペラ風の叙事詩を観ているような気分になるね。
 ――オペラなんか観たことないでしょう。
▼それはそうと、この十年くらいで、事実上の奴隷制が復活しているような気がしてならない。この場合の主人はだれかというと、おそらくは建築物や官僚組織をふくめたハードウエア全般。ひとことで言うと「国家」なんだけど。このハードウエアを維持するために、人々は奴隷のように働くことになる。この構造は何故か不可視なものになっているけど、原発災害で見えてきた。反原発運動というのは、何よりもこのハードウエアという主人に対しての異議申し立てなわけでしょう。原発そのものが、「御主人様」以外の何ものでもない。そこでは労働とその対価という交換は二次的というか事後的にでっちあげられたもので、まずは徹底的な隷属があるんじゃないの。
 ――ハードウエアとしての国家というのはわかるにしても、そこに建築物も入るんですか。
▼入る入る。そりゃ入るよ。建築物は、もはや人間から自律的な存在であるべく、彼ら独自の生態系を獲得している。それが資本主義なんでしょう。鈴木健『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)の議論をここで使わせてもらいましょう。すると建築物というのが「膜」で、商品交換が「ネットワーク」に相当する。じゃあ「核」にあたるのは何なのかということになると、それは「資本」そのもの以外に考えられないでしょう。だいたい「資本の自己増殖」って、あきらかに生命システムみたいなのを参照しているよね。まるで弐瓶勉の漫画みたいな話。そしてここで問題になるのは、建築物のネットワークに人間がとりこまれている。原発が、いったいどのようなタイプの建築物なのか考えた方がいいよ。
 ――鈴木さんの本、前回でさんざん批判したのに、いいんですか。
▼いいもなにも、批判することなしに理解するなんてありえないでしょう。それにニューエイジ系の議論というのは、いろいろヒントになることも多いし。グレゴリー・ベイトソンなんかもそうじゃない。ここで『コモンウェルス』の議論にもどると、これらハードウエアの問題をすっとばして、いきなり「グローバル・ガバナンスをヒントに」なんて言っちゃうのは、やはりちょっとまずいんじゃないの。これって「帝国の運営方法に学べ」みたいな話でしょう。ネットワーク型の統治ってことだよね。前回も言ったけど、ハードウエアの問題を何とかしないと、これって、より洗練された隷属のシステムと同義になるんじゃないの。でもネグリたちの、この対案部分って、みょうに短いよね。おそらく本人たちも考え中というのが、本音の部分なんでしょう。
 ――このボリュームでまだ考え中なんですか。震災渦を目の当たりにしてしまうと、帝国とか革命とか言われても、このかんに我われは何だかそれらをすっ飛ばしで見てきたような気になってしまい、文字情報ではあんまりピンとこないんですけど。
▼こちらが身体的に体験したことをレジュメにされてもなあ……ってことだよね。
 だいたい、この「マルチチュード」ってものすごく包括性のある概念で、フリーターから大学教授まで、みんなマルチチュードになっちゃうでしょう。そこにリアリティもあるんだけど。でも大学の先生とフリーターはちがうよね。教授は研究費がでるんだから。たとえばフリーターが本を買って読むのは、ある意味で未来の自分に対して投資することだよね。つまり、労働市場に参入するには借金から始めなきゃならない、ということになるよね。大学の授業料もそうだよね。こんどは借金奴隷だよ。何だよ、ぜんぶ俺の話じゃんこれ。何とかしてくれよ、俺の本代。
 ――お説ごもっともですが。
▼これが正規雇用の会社員とかだと、社員研修とか、あるいは先輩に怒られながら仕事をしている過程で技能を身につけていくわけだよね。その間も給料がでるんだよね。それで、すぐ辞められたら困るとか、そういう話になるわけだよね。フォーディズム以降の資本制では、こうした社員研修モデルから、借金モデルへと移行するというのがネグリとハートの見立てだということになる。
 じゃあ大学の専任なら安心かというと、こんどは書類奴隷として過労死するのが季節の風物詩だったりするわけでしょう。すごいよね。ネグリがどうのと言う前に、大学教員は「書類に殺されないぞ」デモをやるべきなんじゃないの。これは大学というハードウエアとどう関わるのかという問題でもあると思うけど。
 ――三月には現代理論研究会編『被曝社会年報』(新評論)が出版されました。
▼たしか柄谷行人が、デモのことを「アセンブル」と言い換えているけど。まさに「集合!」のノリが感じられる年報で、「新潮」の一三〇〇号記念とくらべると、なんだか眩暈がしてくるよね。
 そのなかでもゼロベクレル派の旗手である矢部史郎が面白いことを言っている。これはパターナリズム批判とも関係してくると思うけど、ひとことで言うと、人から「安全です」と言われるほど不安になる、ということには実は根拠がある、という話。大地震以降の状況において、実質的に「ナショナリズム」がヘゲモニーを握っている状況のなか、ゼロベクレル派だけが「非国民」としての立ち位置を保持している。すごいよね、絶対に国民国家の物語に捕捉されないんだもん。象徴としての「ネグリさん」が微妙な立ち位置なのとは対照的だよね。あと彼らが「サイエンス」を自分たちの手に取りもどすことを課題としているのは、もっと評価されるべきでしょう。彼らのパターナリズムへの拒否は徹底していて、小出裕章みたいな人に対しても「どけ!」みたいな感じでしょう。
 あと、マニュエル・ヤンの「プロメテウスの末裔」もよかった。これは原子炉を「本源的蓄積」の観点から解釈していくというもので、さっきの建築物の生態系ともつながる話として参考になる。
 ――そろそろ小説の話にいきましょうよ。
▼だって、あまりいいのがなかったんだもん。
 ――いや「もん」じゃなくて、たとえば「文學界」では「男の小説」とでも言うべき二作、西村賢太『跼蹐(きょくせき)の門』、藤沢周『千秋(せんしゅう)』が巻頭に掲載されています。
▼さしずめ、不発に終わる性風俗とでも言うべき作品がならんでいるよね。『跼蹐の門』を読むと、やはり労働市場に参入するには、まず借金からという世界観が前提となっていて仰天した。西村賢太を評価するのって、どこか後ろ向きな感じがしてたんだけど、そうじゃなかった。彼の私小説って、読者に対しての贈与だと思うけど、この場合の贈与って、相手に馬糞を投げつけるようなタイプの贈与だよね。
 私小説って、だいたい三人称で書かれるでしょう。私という存在を、なかば記号でなかばイメージのようなものに仕立てあげて、読者に投げつけることになる。そうなると、『千秋』と読み比べてみるとよく分かるように、読者の参与性が高くなるんだよね。主人公の貫太は、行為体であると同時にトポスでもあり、それは作者の西村賢太とも繋がっているわけだ。読者が参加するためには一人称じゃだめなんだと思う。「こいつ阿呆だよね」とツッコミを入れながら読むには、三人称じゃなくては駄目なんじゃないの。
 『千秋』はそれとは逆で、対象と安定した距離がとれている「私」が出てきて、安定した語りで作品世界が構築されていく。主人公は、語り手であると同時に、視る人でもあるわけだ。その意味では、何だか正統な小説という感じでしょう。西村賢太の小説を触覚的とするなら、この小説は視覚的だよね。だから最後のチラリズムみたいのが結構効いてくるわけだ。性に対するアプローチとしても、この二作品はやはり好対照で、並べて掲載したのも頷けるよね。どちらがエッチかと言えば、そりゃ藤沢周だけど。
 ――「文藝」(夏号)は、次回にあつかうということしましょう。

 ――つづく
(文芸評論家)







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