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評者◆三上治
吉本隆明のマルクス理解のキーは何か──人間と自然の関係をめぐって
No.3108 ・ 2013年04月27日




(四)「マルクス者」吉本

(1)吉本のマルクス理解の独自性

 1965年ころに雑誌『展望』で竹内好は「1970年は展望があるか」という論文を書いた。展望があるかとは安保闘争のようなことが期待できるかという意味であったが、竹内は否定的だったように記憶している。63年の大学管理法案反対闘争に続いて、65年には日韓会談反対闘争が盛り上がり、学生運動は回復の兆しがあった。だが、誰もまだ1970年を前後する全共闘運動等を予想してはいなかった。安保闘争の敗北が反権力の運動に与えた打撃は深かったのだ。誰もがたいしたことは起こるまいと思っていた。その意味では政治的な運動等の見通しを描くことの困難な時代だった。
 この時期に吉本は『試行』で「言語にとって美とは何か」を連載していたが、他方でマルクスについての論稿を発表していた。『マルクス紀行』や『マルクス伝』であるが、これはマルクス主義の解釈を経たマルクスではない、独自のマルクス像である。吉本の思想的な根底の形成をなすものであったが、吉本の世界認識の方法の確立を意味してもいた。吉本は自分を「マルクス者」と規定し、マルクス主義者と区別し、マルクスをマルクス主義と一緒に心中させてはならないという強い決意を語るようにもなる。ベルリンの壁の崩壊と冷戦構造の解体はマルクス主義の死を告げたが、早い段階からの予測であった。安保闘争後に新左翼の登場とともにマルクス主義ルネサンスと言うべき刷新の動きが出てくるが、これは新左翼がロシアマルクス主義の左翼反対派という限界にあったと同じようにしか機能しなかった。
 吉本のマルクス理解はその独自性において際立っていたが、それだけ故意に無視もされ反発もされた。これは幻想という概念や言葉に代表されるものであった。吉本のマルクス理解は三浦つとむに多くの影響を受けているが、特に「観念の自己疎外」という概念がその中心だったように思う。また、横光利一等の新感覚派がまだ「意識の前衛」に関心を持っていたころのマルクス論や小林秀雄のマルクス理解の影響を考えることもできる。大正時代の後期から昭和時代の初めまでの社会主義の理念やイメージは幅広いものであって、このことはマルクス理解にも言えるのである。ロシアマルクス主義の支配力が強くなる以前は幅のある考えも存在していたのである。マルクス主義の再検討をその受容期からするのなら、ここまでの射程と幅を持ってやるべきなのだろうと思う。

(2)「自己疎外」という概念

 吉本のマルクス論はマルクスの自然哲学の析出を根底に据えており、しかも『経済学・哲学草稿』等の初期マルクスの論文に重きが置かれているという特徴がある。マルクスの思想をめぐっては『資本論』などの後期に中心を置くのと、『経済学・哲学草稿』などの初期を評価する見解が対立してきた。ヘーゲルの影響の強かった初期のマルクスと後期のマルクスには思想的断絶があって、一般的には後期のマルクスが完成されたものであり、初期のマルクスは観念論の残滓とされてきた。ルイ・アルチュセールの『マルクスのために』はこうしたマルクス論の代表的なものである。吉本は初期マルクスの段階でマルクスの思想は完成されたと考えている。このことで宗教・法・国家など初期の考察と後期の経済の考察を総合的に把握する道筋をつけたし、唯物論か観念論かという論議に決着もつけた。と言うのはマルクスの思想の初期と後期の評価の対立には唯物論と観念論の問題が絡んでいたからだ。吉本のマルクス理解の根幹にあるのは一言でいえば「自己疎外」という概念だが、この理解はやさしくはない。
 「人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が(1)直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が(2)人間の生命活動の素材と対象と道具である範囲において、全自然を彼の非有機的身体とするという普遍性の中に現れる。自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りの自然は非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然が死なないためには、それとの不断の(交流)過程に中にとどまらなければならないところの、人間の身体であるということなのである」(カール・マルクス『経済学・哲学草稿』)
 人間が自然との交流過程にあるとか、人間が自然の一部であるというのは分かりやすい。だが、全自然を彼の非有機的身体にするという自然との相互関係は理解が難しい。多分、この関係を人間と自然との共通基底のようなものとして考えると把握しやすい。日本的な自然思想では自然に抱かれてあるということになるのだが、マルクスの人間と自然の関係はこのようなものではない。吉本はフォイエルバッハの考えを人間と自然とを共通基底に置く考えとしながら、マルクスの疎外概念(関係概念)は紙一重の差のようだが違うとする。人間は自然(本来の自分)から自己疎外して、つまりは自己を外在態にして自然と関係するのだし、そのとき自然もまた本来の自然から疎外した人間的な自然となって関係する。全自然を自己の非有機的身体にするとは、全自然の方でも人間化があり、そこで本来の自然とは違う交換関係が生まれる。これは媒介的関係という言葉で語られもするが、自己を疎外態にしての関係、つまりは交換関係である。人間は一方で自然そのものという側面を持つ。これは事実的世界であるが、こうした自己を疎外態にしてしか自然(自己も含めて)と関係できないのである。このことをマルクスは人間の生命活動が動物の生命活動と違うこととして説明している。人間は意識している生命活動を持っている。これは直接的な生命活動そのものである動物の生命活動とは区別されたものだ。彼自身の生命活動が対象になった自由な活動というように語られているが、自分の生命活動そのものが対象になった自由な活動は自己を疎外態にすることなしにあり得ないのである。マルクスはこれを類としての活動や存在と規定するが、人間が自己を疎外態にする活動が積極的に捉えられているのである。人間は何らかの制約、あるいは矛盾のゆえに自己を疎外態にすることを余儀なくされているのだとしても、これを人間の必然的な活動、あるいは存在様式として吉本は捉えているのである。マルクスの自然哲学理解から導かれた疎外の概念が、吉本のマルクス理解のキーをなしていた。
(評論家)
(つづく)







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