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評者◆三上治
日本近代における軍の役割──日本の近代で軍の演じた役割を学ばねば真の意味での軍の批判はできない
No.3107 ・ 2013年04月20日




(12)歌人・村上一郎

 吉本隆明と谷川雁が詩人であったとすれば村上一郎は歌人であった。その村上も谷川から少し遅れて『試行』を離れる(『試行』は1964年6月には吉本の単独編集となり、三浦つとむがそれを支えるようになる)。村上は1975年に自刃して亡くなるが、『試行』を離れたあとは桶谷秀昭とともに『無名鬼』を出していた。僕が村上と最初にあったのは吉本邸であったと思われる。僕は村上が大好きで、しばしば成蹊大の近くに訪ねていったこともある。個人的な悩みの相談にものってもらった。その後で記憶に残るのは彼が順天堂大学に入院している頃に見舞いに出掛けたことである。多分、入院していることは吉本から聞いたと思うが、その当時はどういう経過で入院しているかは知らなかった。後から知ったのは多摩美大の大学紛争での行動を心配した学長が慌てて入院させたということだった(この行動とは、学生部長だった村上が、対峙する学生たちの前に軍服姿で剣をさげて現れたことと伝え聞いた)。
 病院は御茶ノ水にあり、僕は何度か訪ねたが、村上は散歩のついでに僕が出入り場所にしていた中大学生会館に立ち寄ったこともある。こうしたこともあって、後には中大学生会館の自主講座で『軍事論』の講座をやってもらった。村上は毛沢東の軍事思想から日本の軍隊の軍事思想まで論じるつもりだったらしいが、大学闘争の激化の中で学生会館が閉鎖され中断されてしまった。村上は異様な行動に走るくらいに精神が昂ぶっていた時期でもあったらしく、こういう時期に誘うのはよくないと吉本には忠告されたが、僕は気持も落ち着くのではと思っていた。軍事論の関心が高まっていたのにまともに論じられる人がいなかったこともある。
 この講座に僕はなるべく顔を出すようにしていたが、その後は村上と会う機会はあまりなかった。奥野健男の『三島由紀夫伝説』によれば、三島は1970年に向かう学生たちの行動に対して切り込んで対抗する構想を持っていたらしいが、また、村上は三島らに対抗する気でいたとのことだ。学生側に立って三島らと切り結ぶ覚悟をしていたらしい。そのために刀を研師に出していた帰りに寄ったということが記されている。1970年前後やその後の村上のことはよくわからないが、1970年11月の三島事件に深く影響されたことは確かである。1975年の自刃はそれを示しているように思える。
 村上は歌人であり心情の人であると言えるが、戦中は海軍主計大尉であり、武人のこころを大事にした人である。彼が体制や権力に立ち向かう反逆者として生きようとしたことは間違いないし、その心情と激しさにおいてとても魅力的な人だった。彼は反逆する主体を探求し彷徨し続けていたが、その帰結は「草莽」という理念であった。これは吉田松陰の語った「草莽崛起」を淵源とする言葉であり、普通は右翼が用いるものである。かつては武人であり、行動者であろうとした村上のこのイメージは三島由紀夫の行動者に似てはいるが、天皇についての評価が違う。そこが村上の特異なところであった。彼にとって草莽とは精神の自立者であり、権力からは極端に離れたところに位置する存在である。だが、この存在はいわゆる常民には融け込めないものでもある。封建主義体制と近代資本主義体制から、また常民的生活体制からも二重の疎外された存在である。これは現実的には体制や常民的生活に属してあらねばならないが、精神とか思想とか仁義(村上では仁は人間のこころ、義は人間という意味)とかで存在するものだ。このインテリゲンチャのような存在が草莽である。これは谷川の原点や吉本の大衆原像に匹敵するものだったと言えるだろう。

(13)村上の独自な軍隊論

 吉田松陰に、恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ、ただわが六尺の微躯あるのみという言葉があったが、村上の草莽論はここによりどころを求めていて、天皇や天皇制とは結びつかないでその存在をイメージしている。村上の草莽論はそこが右翼とは異なるところであったとも言えるが、彼がイメージした国家や社会は天下・社稷という理念になる。これは右翼の思想家であった権藤成卿などが提示したものであるが、その系譜にある理念と言える。国家や祭祀に支配されない天下・社稷をイメージしていて、そこが右翼とは違っていた。これはコンミューン的な共同体のイメージであると言える。村上は翻訳的な民主制とか共和制、あるいは社会主義というイメージに対して、アジア的な伝統にある社稷という概念の再生を構想していたと言えるだろう。特異な構想と言ってよかった。
 彼は、吉田松陰から起こった草莽の運動は明治の半ばに終焉したと言う。俗に言う大日本帝国憲法や教育勅語が成ったころであり、草莽が草莽としての活動を喪失していくのはこの時期であるとも言う。ここで成立した近代体制に対して左右の抵抗運動が起こるけれども、それらに対して村上はこのように批判する。「大正維新・昭和維新の叫びはひとたび起こったけれど、社稷・天下のために、国に不忠であってよいと信ずるものは稀であった。国に不忠であることをもってイデオロギーとした共産主義者には、イデオロギーを信奉するから当然、仁義に乏しく、社稷・天下の観念はなかった。彼らには志において、草莽のこころをこころとすべき筈のものであったが、翻訳調の近代主義のために、仁や義を馬鹿にし、暴力を道まで高め得ず、彼らの階級戦を真に祖国のものにすることはできなかった。」(『草莽論』)
 村上はナショナリストでも民族派でも右翼でもなかったが、日本やアジアの伝統的な思想から主体的な行動者としての草莽を見いだし社稷を求めた。
 彼は、日本の軍が近代において果たした役割を高く評価している。戦後の戦争批判の風潮は近代において軍の演じた役割を軽視するというよりは、その歴史にすら目を向けないということを生みだしてきた。「ファシズムを批判するにはファシズムを教えよ」と言ったのは丸山真男であるが、日本の近代で軍の演じた役割を学ばねば真の意味での軍の批判はできない。戦後でも軍の萌芽(連合赤軍事件)のようなものを見聞することでこのことを痛感した。村上には「日本軍隊論序説」というすぐれた論稿がある。これは同名の本に収められた論文だが、体系的に日本の軍を論じている。その中の第二ノートのところで「日本の軍隊は、日本におけるプロレタリア階級を造出した」とあるが、これは日本の近代社会の分析として見事なものだ。飯塚浩二編『日本の軍隊』とともに戦後の数少ない軍隊論と言える。村上には三島が絶賛した『北一輝論』がある。北一輝については松本清張から松本健一まで実に多くの人が書いているが、僕は渡辺京二の『北一輝』とこの本を評価している。あらためて読み直してその感を強くした。
(評論家)
(つづく)







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