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評者◆砂川昌広(宮脇書店西淀川店、大阪府大阪市)
今まで聞こえなかった何かが聞こえる──吉田篤弘著『なにごともなく、晴天。』(本体1500円・毎日新聞社)
No.3107 ・ 2013年04月20日




 私の住んでいる団地の部屋からは電車が見える。線路まで200メートル程度の距離だろうか。昼間はほとんど気にならないけれど、夜になり全てが静かになると、電車の走る音に気づくことがある。たまにぼんやり見ていると、何だか気持ちが落ち着いてくる。聞き慣れた一定のリズム。待っていれば必ずやってくるところもいいのかも知れない。この物語を読んでいるときの気分とよく似ている。
 主人公・美子が暮らすのは「晴天通り」という高架下商店街。古道具屋でひとり働きながら、その二階に住んでいる。ここでは平均7分おきに頭上を電車が走り抜けていく。騒音と振動がひどいとなると、嫌気が差しそうなものだが、美子はいたって呑気に暮らしている。学生時代からの友人で輸入雑貨屋をしているサキや、商店街の噂を全て知っている純喫茶の「姉さん」とたわいのないお喋りをする日々。行きつけの定食屋のB定食をこよなく愛し、銭湯に行くことを大切な日課としている。生活のなかにある手触り、匂い、響き、眺め、味、五感で感じるものを丁寧に観察して、語りかけるように物語は描かれていく。
 「朝から晩まで、つまり銭湯に行く時間まで高架下に居座っていると、場合によっては、一度も太陽と雲と青空を見ずに終わる。だから一日一度、窓を開け、その日がたとえどんより曇っていたとしても、景気づけに「本日も晴天」と誰へともなく言う。
 ついでに空なんかを見上げて、まぁ、そっちからは見えないでしょうけれど、ここに約一名、今日もおりますと、一応、空に向けてことわっておく。」
 そんな平穏なある日、主人公が隣町の銭湯で元探偵と名乗る女性に出会った。気ままに日々を過ごしていたはずだった登場人物たちは、突如として自分の過去と向き合うことになる。探偵がこの辺りをウロウロしているらしい。もしかして、あの探偵は私の過去のあのことについて探っているのではないか。それぞれが胸に手を当てて記憶をたどれば、実は隠していることがないこともない。探偵はただ銭湯でお風呂に入っていただけなのに、なにごともなかった晴天通りに不穏な影が射し込んでくる。
 誰もが秘密を抱えて生きていると言うと大げさだけど、誰もが大切な思い出を胸の奥にしまっている。喜びと悲しみはコインの裏表のようにくっついている。なぜ、コーヒーが好きなのか。なぜ、B定食にこだわるのか。何かを愛するのは何かの裏返しなのかも知れない。探偵の登場によって思い起こされた過去が今を照らし、読者に様々な情景を見せてくれる。
 「音については、少なくとも、昼間のうちは気にならなくなった。気になるのは、自分の心持ちが本当に澄んで空っぽのとき。そういうときは耳がざわざわして、いつも以上に音が大量になだれ込んでくる。ときどき、夜中なんかにそれが起こる。」
 この紹介文を書いている途中、急に私にも電車の音が聞こえてきた。ずっと電車は走っていたのに、ある瞬間ふと気がつくのは不思議な感じがする。たとえ意識していなくても、そこにあり続けるものは確かにあるのだなと思う。それは過去から今を経由して未来へとずっと繋がっている。最後のページを読み終えたとき、「なにごともなく、晴天」と空に向かって言ってみたくなった。そうすると私の心も澄んで空っぽになり、今まで聞こえなかった何かが聞こえてきそうな気がした。







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