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評者◆水戸喜世子(聞き手・小嵐九八郎)
デモが高揚した時代は救援運動の時代だった──反原発を牽引した夫・水戸巖の遺志は蘇る【長尺版】
No.3106 ・ 2013年04月13日




第22回
水戸喜世子氏(元救援連絡センター事務局長)に聞く
聞き手=小嵐九八郎(作家・歌人)

▼ゴクイリイミオオイ(獄入り意味多い)の電話番号で広く知られる救援連絡センター。その初代事務局長を務めた水戸喜世子さんに作家・歌人の小嵐九八郎氏がインタビューした。1960年代・1970年代は、学生と労働者、市民による激しいデモと警察権力の弾圧、全国に広がった救援戦線を抜きに語ることはできない。救援運動のさまざまな体験と苦労話、その教訓を語っていただいた。(編集部)


◆幼子3人を連れてベトナム反戦の座り込み

 小嵐 今日は、インタビューを受けて下さり、心から感謝します。一九六七年一〇・八羽田闘争を闘った私たちにとっては、一九八六年一二月に北アルプス剣岳で、御子息二人と共に遭難し、亡くなられた御夫君・水戸巖氏(註 文末に略歴掲載)の必死にして切実な生き方がどうしても忘れられません。闘って逮捕された学生にとって心強い救援、三里塚闘争への連帯や東山薫さんのガス銃による虐殺への科学的立証による追及、死刑制度廃絶への関わり、狭山差別裁判の弁護側鑑定など、あらゆる場面で活躍されています。とくに物理学者の立場から高い見識と実践力によって反原発運動を牽引されました。一九七〇年代から八〇年代の反核・反原発運動は、水戸巖氏久米三四郎氏、高木仁三郎氏、の三羽烏の活躍によって展開されていました。党派の利害にどうしても引きずられていく運動や組織への水戸巖氏の誠実なる批判と実践による克服への努力に対しては、掛け値なしに、畏怖を感じつづけています。そしてそこには常に、救援連絡センター事務局長の激務を担われた水戸喜世子さんの存在がありました。
 この亡き御夫君への思いと重複しながら質問しますが、お二人が結婚されたのはいつですか。
 水戸 一九六〇年三月に彼はドクターを終え、私は大学を卒業して結婚。会費制の結婚式場からは砂川基地闘争に「代表派遣」するなんて場面もあって、親たちは目を白黒させていました。その式の最中に連絡が入って、彼の就職先は甲南大学の理学部ということになり、私はもう少し勉強したいなと思っていたので、大阪大学の内田龍雄研究室の研究生にしてもらいました。
 小嵐 では、六〇年安保闘争にはどのように参加されたのですか。
 水戸 六〇年安保闘争は、私は大阪大学の院生たちと一緒にデモをやり、東京にも夫婦で何度も出て行きました。六・一五当日樺美智子さんが亡くなったのがわかった時は、「殺された」という思いで口惜しくて涙が出てとまりませんでした。暗闇の日比谷公園に戻ってきて、皆しゃがみこんで何時までも泣いていました。大変な衝撃でした。
 小嵐 一九六三年に「社会主義科学者集団」の名称で出されたメーデーへのガリ版刷りのビラを拝見しました。この神戸時代の頃の日常生活、思い、考えはどうだったのでしょうか。
 水戸 ビラの筆跡は彼のものではありません。「キューバ・ラオスに対する帝国主義者の侵略反対! 権力による教育・研究の支配反対! 権力に迎合する大学上層部に断固たる戦いを挑もう!」と書いてありますね。「共産党神話」から解き放たれ知識欲に飢えていました。甲南大学に行ってまず始めたのは若い人たちと労働組合をつくったことで、関西一の給与水準になったとみんな意気軒昂でした。彼と活動を始めるとみんなが楽しくなる。不思議な才能の持ち主です。学生時代のトブツコン(都内物理科学生懇談会)でも若い組合員たちとは家族ぐるみの付き合いでした。社会科学の勉強会もしっかりやっていました。多分ビラは同僚の若い科学者とか、組合員が書いたのではないでしょうか。
 小嵐 荒荒しいけど、しなやかな時代だったのですね。六〇年安保以後のお二人の日常の生活はどうだったのでしょう。
 水戸 六〇年安保で樺さんが殺された後を自分たちがどう引き継ぐのか、みんな考えていた時期だと思います。彼は猛烈な勢いで本を読んでいたので、本の出費が一番家計にこたえた時期でしたね。家にいる時は赤ん坊を膝に乗せて子守りしながらバロックをかけて、読書するのですが、彼に抱かれるとむずかっていた子どもも魔法にかかったみたいにすやすやと眠ってしまうのです。子守りと読書とレコードが彼お得意の三点セット。時間の使い方が上手というか、活動と遊びと仕事をうまくミックスさせるからギスギスしない。しんどい時も楽しくなる人です。双子と年子ですから三人ともオシメをしていた時期には家事も山のようにあるのですが、土日は彼が主婦並みに頑張ってくれましたし、夜は私がデモに行くこともできました。朝学校に行くときは「ごめんなさい」と言って出かけるんです(笑い)。学校の方が何倍も楽だって。
 小嵐 その頃は、六〇年安保闘争敗北の後の苦しい過渡期、端境期ですね。
 水戸 そうですね。関西は東京よりはのどかだったかもしれません。でも新左翼系の機関紙誌には目を通していましたよ。たしか『戦旗』の印刷機が使えなくなったとかで「カンパを!!」という記事がのって、二人で意気投合して銀行からありったけのお金(実は私の花嫁道具代わりの持参金)を下ろして送金したこともありますよ。大金なのに領収書も届きませんでしたけどね。
 三歳になるまでは母親に育児の特権があるというのが、私の持論ですから、彼ひとりの給料で、やりくりしていました。夜は子どもを彼に預けて、私は「日韓基本条約」に反対するデモに同じ団地の主婦仲間で参加していました。育児からの解放感もありましたね。警官のトンネルをくぐらされ、蹴られ、殴られのイタイ痛いデモでしたけど私たちは後ろの列の真ん中に入れてもらえるので、ましなほうだったと思います。デモ指揮をする先頭の人は頭や顔からも血を出していました。その人は領事館前の座り込みにも来てくださって忘れられない人ですが、早くに亡くなられました。警棒のせいだと今も思っています。韓国の学生も頑張っているんだからと、そんな気持ちで頑張れましたね。
 しばらくしてアメリカの北爆(六五年二月七日)が始まり、傷ついた子どもの大きな写真が新聞一面に報道されるようになりました。母親の胸をえぐりましたね。その新聞を手に、今度は保育所のお母さん友達にも呼びかけて神戸アメリカ領事館前で子連れの座り込みを始めました。初めは、二人の若者が座り込んだという記事を水戸が新聞で見つけたのがきっかけです。いろんな出会いがあって、新左翼系の人、一般市民も次第に増えて、とうとう一〇〇日続き、それが神戸べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の始まりになったのですよ。
 小嵐 当方は学生運動に入る前のことで、うらやましい動きですね。
 水戸 一九六七年一月に、彼は東京大学原子核研究所(核研)に転勤が決まり、一足先に上京し、住まいなどの準備をし、四月に私と子どもたちが東京に移りました。六年半ぐらいの神戸時代は、権力に対して悔しい思いはありましたが、緑濃い六甲山の麓で親子思い切り密着して過ごせたという意味で、幸せいっぱいでした。
 子どもも親もこんな幸せな神戸の六年間があったから、このあと待っている過酷な環境に耐えることができたのかもしれないですね。


◆10・8羽田救援会をすぐに立ち上げた

 小嵐 その年に、佐藤首相ベトナム訪問阻止の一〇・八羽田闘争があったのですから、招きよせられたんですね。では、救援連絡センターをつくるきっかけを教えてください。
 水戸 水戸巖本人が反戦青年委員会として職場の若い人と一緒に羽田の現場に参加していたことが大きいと思います。彼はまだ三四歳。日韓条約反対デモで、私自身も無防備・無抵抗の市民に警官が血に飢えた獣のように襲いかかるものだということを体験していましたから、角材・ヘルメットで防衛する意味がすこしは理解できましたね。水戸は現場に行って、機動隊の暴力もデモ隊の必死の頑張りも見て、その上に山崎博昭君(京大生、一八歳)の死にも直面しました。
 夜明け頃「ケガ人を病院に運んだり、救急車を呼んだりして手当てしていたから、こんな時間になってしまった」と家に帰ってきましたが、とても高揚していましたね。「明日の新聞は『暴徒キャンペーン』一色になるぞ。学生たちを暴徒にされてたまるか」と言って、仮眠をとるとすぐに原稿を書き上げてあちこち電話をかけては読み上げているのです。核研に出勤して「報告会」も開いています。大量に郵送して、「声明」は一〇月一四日、梅本克己、大江健三郎、小田実、鶴見俊輔、羽仁五郎、日高六郎、堀田善衛ら二一氏連名の「声明」になって結実します。それより数日早く黒田喜夫さんや岩田弘さんらの素晴らしい声明も出ましたね。「国家権力によって武装された警官の暴力と、学生の肉体的行動による抗議とは、冷静に比較するならば、その暴力性において同じ程度のものではない。学生の行動の行き過ぎを批判するだけでなく、それに百倍する力を持って、日本の政治に対して抗議したい」と。これら両方の方々の声明がやがて「救援の訴え」の土台になって「羽田一〇・八救援会」が発足できたのです。
 小嵐 やはり必死な闘いを起点に、その滾(たぎ)りが救援の輪を広げていった……。
 水戸 そのとおりですね。事務所は小さなわが家でした。事務局員は私たち夫婦と三人の小さな子どもたち。当時の『朝日グラフ』に全面で幼い子どもたちが封筒に切手を貼ったり、ビラを折ったりしている写真が載ったのですね。それを見て、友人や同僚が手伝いに来てくれるようになって、山本義隆さん(その後、東大全共闘議長)や、反原発で今、東奔西走の槌田敦さんも家族ぐるみで手伝ってくれました。昼間、私はスバル360を運転して毎日毎日、羽田周辺の病院回りをし、未払いの治療費を払い診断書をとって歩いてました。それは法務委員会で「過剰警備」の証拠となりましたし、何よりも反戦の歴史の中での人民の宝だと思っています。女にとっては「わが息子の血」です。
 小嵐 山崎博昭氏の死のことについて、もう少し語ってください。
 水戸 山崎君の死は、「学生が装甲車を運転していた」という警察発表が新聞に出て、何としても「学生が学生を轢いた」というストーリーに持っていくぞという警察の意図がありありと見えたんです。案の定、次の年の一月に、装甲車を運転していたということで未成年のN君ともう一人I君が別件逮捕されました。なんと留置は警視庁です。「すぐ差し入れだ!」という水戸に促されて、生まれて初めて警視庁へ。白いセーターとケーキに思いを託したのです。「誘導尋問に屈するな! 市民はあなたの味方だよ!」という思いをね(註 二人とも当時、日大生。重過失致死で不起訴、釈放をかちとった。弁護団は死亡診断書から警察官の警棒による頭部殴打が死因と判断)。
 差し入れの帰り道、家まで私服がついてきて、尾行の初体験をしました。勾留理由開示裁判まで毎日差し入れは続けていたので、本人に法廷で会った時には、お互いにすぐにわかりました。初対面なのに。
 小嵐 切羽詰った状況の中で必ず誰かが動き出す……。
 水戸 本当にそうですね。誰に頼まれたわけでもないのに。大義のある闘いがあれば、の話ですが。重罪攻撃粉砕という救援の醍醐味を一回目にして運よく味わえるなんて。いつもこううまくいくわけではないけど、〈黙秘と激励〉こそがフレームアップ粉砕のカギだってことを学びました。一九六九年当時のように一日で二千人規模の逮捕ともなると、差し入れも弁護士も期待できないから黙秘しか手段はありませんでしたね。


◆救援連絡センターを結成、逮捕者が続出

 小嵐 その後、闘争は盛り上がっていきます。二度目の羽田闘争、三里塚農民連帯の闘い、佐世保エンタープライズ寄港阻止、王子野戦病院開設反対、全共闘運動、そして一九六八年一〇・二一国際反戦デー闘争は国会、防衛庁、新宿で闘われ、新宿には騒乱罪が発動されました。
水戸 羽田の後始末も終わっていないのに、個人で対応するのはもう限界でした。それでも、可能な限り、現場には駆けつけていましたね。二人で考えた末、カンパをいただいた方の住所をたどって、王子闘争はお住まいが近くの石川逸子さん(詩人)に、三里塚闘争は当時千葉大学の教員だった渡辺一衛さん(物理学者)に、とお願いしてみたら、快諾していただけたのですね。闘争ごとに個別の救援会ができるようになり、東大闘争、日大闘争を経て個別救援会が全部集まって合同救援会が発足しました。六八年一二月から六九年四月まで三回の機関紙を発行し救援連絡センターに引き継がれていきます。私たちが願った形は、①誰でも逮捕されたら弁護士に来てもらえる(弁護士事務所分室でなければならない)。②最新の弾圧事情をみんなに知らせる機能をもちたい=最低限の機関紙を持つ。機関紙上では毎月会計報告をして鉛筆一本に至るまでカンパの使途を明らかにする。厳密に救援に限定しなければならない。③特定の党派の思想的介入に左右されない、ということでした。
 これはセンターの二大原則(1国家権力による、ただ一人の人民に対する基本的人権の侵害をも、全人民への弾圧であるとみなす。2国家権力による弾圧に対しては、犠牲者の思想的信条、政治的見解のいかんを問わず、これを救援する)として文章化されました。今思うに、もっと、具体的に細かく、党派の介入を拒否する手立てを書くべきだったのかもしれません。「世話人会の決定には、党派事務局員は無条件に従う」とか。まさか、こんなに「髪の毛一筋」の違いに目くじらを立てていがみ合うなんて、想像もできませんでしたものね。
 六八年一二月に引っ越し、六九年三月末に正式に救援連絡センターは発足しました。
 小嵐 救援連絡センターの電話番号「獄入り意味多い」(五九一―一三〇一)は、いつつくったんですか。この電話番号はすばらしいアイディアでしたね(註 現在の電話番号は〇三―三五九一―一三〇一)。
 水戸 発送作業の応援に、私の家には色んな人が出入りしていましたが、手を動かしながらしゃべっている時に浮かんだアイディア。所沢高校の同僚で後に所沢市議になったNさんの思いつきでした。
 小嵐 この頃には当方もすでに党派に入っていて聞きにくいのですが、この救援連絡センターと党派との関わりはどんなでしたか。
 水戸 六八年当時の学生運動の状況は興味深いものでした。三月、三里塚に初めて大結集するという時に、現地に行って、救援の打ち合わせをしたのです。結果的に、弁護士関係は中核派、病人・ケガ人関係は医者が多いブント(共産主義者同盟)、場所を借りるには組織関係に強い社青同解放派というように自然に役割分担ができて、なんだかとっても愉快でした。この場面が印象的で、救援連絡センターもそんな良いイメージで描いていたのですね。でも一年もたたないうちに、水戸は喧嘩の仲裁に走り回ることに。
 小嵐 三派全学連の時代は熱い絆が燃えていてよかった、というのはたしかに同感です。
 水戸 救援連絡センターがどうにか今も存続しているのは、創立時の二大原則が紙の上の飾りでなくて、現場で守られてきたという信頼ではないかと思っています。接見メモ一枚が対立党派に渡っても一巻の終わりですから。私のような頑固な主婦が事務局にいて応対し、電話に出ることで救援会の市民も弱小党派の学生も安心できたと思います。厳密に会計をしてくださった主婦のIさん、医療班の主婦のSさん、歴戦の大先輩・郡山吉江さんたちは常勤でセンターの大事な部署を担っていました。山辺健太郎さん(朝鮮史研究家、戦前治安維持法で逮捕・投獄)などの先輩たちから治安維持法下での獄中闘争を聞かせていただく機会もつくりました。一方で、全国に生まれた百近い市民救援会がセンターの血管そのものになりました。「杉並署に学生逮捕。留置番号五番」と地域救援会に連絡すれば即座に差し入れが届く体制ができあがっていたのです。所属セクト関係なしだから、一番困るのは警察です。関係者が差し入れに来れば素性を知る手掛かりになるのに。東京二三区にはほぼ全部救援会ができましたよ。
 小嵐 初めの頃はデモの逮捕者があまりに多くて、裁判所の機能がストップしたとか?
 水戸 ええ、当時の東京地方裁判所は祝田橋にありましたが、大きな闘争があると、勾留尋問がある日は、裁判所は全部閉廷になるんです。学生や労働者たちは皆、数珠つなぎで、都内各所の警察署から一斉に護送されてくるので、一般法廷はすべて休みになっていました。大量逮捕が日常的になると、逮捕即弁護士接見はもう不可能です。「三泊四日は接見はないもの」と覚悟してもらって、四日目の裁判所での勾留尋問の機会を利用して、一斉に弁護士接見をします。接見といっても氏名、大学名、所属党派名、逮捕状況、暴行を受けたかどうかなどアンケートするわけです。それは厳密に管理されて、関係者に引き継がれます。組織のない人はセンターが対応します。新宿騒乱の時は店員さんとか、通行人が逮捕されていましたからね。
 大きな闘争では、各党派から救対代表者を出して統一救対を構成して、作業をしていました。旅館に泊まりこんで接見メモを整理したり、差し入れ品を調えたり。夜の作業には、必ず大学の授業が終わってから水戸も参加していました。ノンセクトの逮捕者はセンターが担当する。六九年までは、そんな形も可能でしたね。そのうちに、闘争形態そのものが党派ごとにバラバラになっていくので統一救対の形態もなくなっていきます
 小嵐 うーん、客観主義的な反省をしてはいけないけど、ここいらが、党派の限界なのですかね。三里塚の闘いは、でも、どうでしたか。
 水戸 三里塚闘争には、全国からの市民の共感が集まりましたね。権力側は現場で着色剤を浴びせかけて駅で待ち構えて検挙する、解散集会を開いているところへ機動隊が襲いかかって怪我人が出る、怪我人を取り囲んでいた赤十字の医療救対にまで襲いかかるなど、弾圧も常軌を逸していましたね。野戦病院には衣類や医薬品を運んだり、医者を乗せたり、わが家の乳母車スバル360はとうとうポンコツになって、三里塚に骨を埋めたんですよ(笑)。
 そんな中で革マル派が野戦病院の車を襲撃する事件(七一年三月)が起きて、それ以来、救援連絡センターには彼らの救対は出入りできなくなりましたね。三里塚を闘う全戦線の「抗議声明」を出しました。彼らは破防法弁護団を襲撃するというとんでもない事件(七四年一月)も起こしていますが、そのいずれに対しても反省の言葉は聞いていないので反弾圧を共に闘える仲間ではありません。敵対者です。
 野戦病院の運転手をしていた東山薫君が警官の水平打ちで死亡するという痛ましい事件(七七年五月)もありました。この事件では、水戸は物理実験をして警官による水平打ちが死因であることを裁判で科学的に実証したのです。損害訴訟裁判は勝ちましたが、上京して初めてセンターを訪れた東山君に「三里塚で車を担当してほしい」とお願いしたのは私でしたから、辛かったです。
 小嵐 一〇・二一新宿騒乱以前は、三派全学連のデモで逮捕されてもせいぜい一〇日間の勾留延長がつくぐらいで、二三日間目一杯勾留というのは少なくて、二三日間入ってきたら「お前、長かったなあ」なんて言ってました。
 水戸 六九年一月の東大決戦以後は、起訴率も高くなり、長期拘留が日常的になってきました。そのため獄中闘争、医療闘争と課題が広がりました。山田真先生が「獄原病」と命名された、拘留が原因の発病も問題になりました。もう一つの医療は街頭闘争での取り組み。デモコースを下見して、衝突しそうな地点を予測して医療拠点を作っておくのです。はだしの医者もどきの医療班が山田先生を中心に組織されました。それくらい、街頭デモでは怪我人が多く出たのです。良心的な医師のおられる病院があったおかげで、どれだけの学生が救われたことでしょう。幾針も縫わなければならない時は、外科のK先生がおられたH病院でした。命を守る闘いでした。
 小嵐 事務局長を退かれる七三年末までの五年間は、そうするとずっと事務所詰めですか。
 水戸 ええ、ほぼ毎日。無給で(笑)。高校の講師もやめました。子どもが小学生になっていましたが、深夜まで鍵っ子なので、見かねた京都の市民救援グループが関西の女子学生を紹介してくださってからは助かりました。でもセンターのおかげで家事の分担ができる子に育ちましたよ。その頃の私には、自分の子どもたちの将来と、逮捕される学生の姿がどうしても重なって見えるのです。自分の子どももやがて闘争に参加するに違いないと。本当にそうなりましたけど(笑)。


◆連合赤軍事件にも救援の信念をもって対応

 小嵐 ところで、連合赤軍事件は救援戦線にとっても大きな問題を投げかけました。
 水戸 京浜安保共闘が海から泳いで羽田空港にほんの少し入った(六九年九月)という微罪相当事件で、リーダーの坂口弘君に七年の求刑が出るという事件がありました。重罪攻撃の始まりではないかと、センターでは弁護士の協力を得て、全力で取り組んだのです。その甲斐あって保釈がついたまではよかったのですが、坂口君は、保釈後、地下に潜って七二年の連合赤軍事件、あさま山荘事件にかかわることになるのです。重罪攻撃が日常化してはならないと頑張ったのであって、別に坂口君のために頑張ったわけではないのですが、水戸は、保釈にならず獄中にいたらあんな連赤事件にはかかわらなくて済んだのに、と内心悔んだようです。救援が背負う宿命のようなもので、しようがないのですが。結果、彼は死刑判決でしたね。
 水戸は時間ができると東拘まで坂口君に面会に行き、頼まれた資料や本を探しては頻繁に届けていただけでなく、詳細な論述で死刑判決を下した中野判決の批判を書き上げています。その間のことを、坂口君が追悼文で細かく書いています。本当の意味で「革命家」としての総括をする手助けをしたいと、水戸は思っていたようです。
 とにかく、一〇・八の救援から始まり、行き着いた先は「死刑判決」だったのです。彼が「死刑廃止運動」をセンターの大きな柱にしたのも、連赤がきっかけでした。
 小嵐 そこは水戸さんは偉いよね。関連することですが、あさま山荘事件の時の〝人質釈放〟という水戸巖さんの行動について、もう少しお話しください。
 水戸 これは、やっぱり「彼らに人質を殺させてはいけない」「権力に彼らを殺させてはいけない」ということが一番大きかったと思います。「自分自身を殺すな。誰も殺すな」ということ。彼が説得のマイクを握ったのは、坂口君とセンターとのかかわりがあったからできたことです。
 この事件については、『救援』35号に水戸は要約すると次のように語っています。「事件の経過と情況をよく見、考えてみよう。……直後から狂気集団・凶悪犯人に仕立て上げ、政治行動としてしか認知しようがない事実を政治から完全に分離し、親族などの涙ながらの説得をマスコミで増幅、『凶悪』『非人間』という感情的罵倒をもって世論操作した。これは今後、警察は何をしてもいいのだという下地つくりをしているのだ。政府・警察のこのやり方は国民生活に無関係だろうか?……ますます警察国家体制のもとに国民生活を落とし込むために、『あさま山荘事件』を利用してくるに違いない。政府に対していささかでも批判を持ち、行動に示そうとする者はことごとく犯罪者に仕立てられる仕組みに…。日本の警察が真に国民の生活を優しく保護したことがあったであろうか。坂東君のお父さんは警察とマスコミに殺されたではないか(註 連合赤軍の坂東國男氏の父は自殺に追い込まれた)、凶悪なのは常に警察であったし、国家権力ではなかったのか」と。
 小嵐 水戸巖さんは、もう一歩、厳しく反省しているとも……。
 水戸 機関誌『救援』のコラム「海燕の便り」では「TVの銃撃戦には全く興味がなかった。▼自称シンパを含め彼らの散華を期待していた人が多かったようだ。死を賭して戦うということと、軽々しく命を捨てることは違う。革命的左翼は三島由紀夫などにアジられてしまってはならない。組織とか…なにものを持ってきても自己を偽ることのできなかった彼らこそ、一番命を大切にし、最後まで生きながらえねばならないのだ▼『赤旗』は16歳の少年の実名と連行時の写真をでかでかと掲載……林百郎共産党議員は国会で連赤の取り締まりが生ぬるいと警察を叱り続けた……▼ことばがむなしい。国会での…も、新左翼の大言壮語も聞き飽きた。ことばがむなしい。それだけに山荘の無言の対応は、この政治状況に鋭く突き刺さった。……しかし数千万の大衆が自らの進路を決定するとき、一人一人の魂を揺さぶる言葉が、真実の言葉が、いま必要なことに変わりはない」と書いています。今の状況にも通じませんか。
 小嵐 立て籠もる側になって考えると、闘争の道義性から言って、人質をとらない方が、権力と闘うには有利なんですから、僕もそこは気になったんです。ですから、水戸さんたちは非常に重要なところに目をつけていると思ったんです。でも、水戸さんたちは誰も死者を出さないという思いだったんですね。水戸巖さんの死刑廃絶の立場と運動は本物です。
 水戸 鋭く先を見通せる人だったと思います。


◆内ゲバが激しくなり、救援戦線は困難に直面

 小嵐 救援というのは、運動の生命線でして、とくに党派にとっても反弾圧の領域は非常に重要で、もしここで崩れていくと闘いの魂がなくなっていくんです。その中で、救援連絡センターが党派の利害に振り回されるのでなく、しっかりと前述の二原則に立ってやるのは大変なことだったと思います。
 水戸 本当に。
 小嵐 救援連絡センターをおやめになる前の段階でのご苦労、苦しみなどについて、語っていただけますか。
 水戸 連赤の内部粛清、党派間の殺し合いが激しくなってからは、まず党派色のない市民救援会から「救援をやめたい」という電話が入るようになりましたね。もちろん世話人内部でも様々な議論が起こり、やめる人はやめ、残った人たちで、一九七三年一月に全国救援連絡会議を開いて、再強化を訴えたのです。三年間でセンターが弁護士接見した数は一万四〇〇〇人。改めてその数に驚かされます。センターの財政は一年一〇〇〇円の協力会費だけで賄われているのですが、協力会員の拡大も確認しました。内ゲバを批判しておられた荒畑寒村さんをセンターの代表に迎え、戸村一作さんに運営委員になっていただくなど、尽くせるだけの手を尽くしても、内ゲバの影響を免れることはできませんでしたね。
 個人的には、そのころから何も名乗らない、正体不明の嫌がらせ電話、ハガキ、脅しが届くようになり、子どもを守らねば、という思いが強くなっていきました。脅迫状も物も怖くないけど、昼間の親のいない時間に電話で小学生の子どもを脅かす卑劣さにはこたえました。夫と話し合って、関西の弟の隣に住ま居を定め、関西行きを決めました。「部落解放運動をゼロから学ぶ気で来なさい」と師岡佑行先生(当時、『解放新聞』主筆)が呼んでくださいました。夫の身に万一のことがあっても子どもを育てねば、という思いが強かったので、この提案は嬉しかったです。息子は仲良しの野球仲間と離れることがどんなに辛かったか、後になって話してくれましたが、本当に子どもには頭が上がりませんね。水戸は毎週とはいきませんが、週末は無理をしても帰るようにしてくれていましたから、かえって濃密に充実した時間が親子で過ごせました。その後、一九八三年に三里塚反対同盟が「北原派」と「熱田派」に分裂してからは、会うたびに水戸の苦悩が深まっていくようでした(註 一九八三年三月、二期工事予定地敷地内をめぐる「一坪再共有運動」と「二期工事阻止」の路線が対立し、三里塚反対同盟が分裂)。
 小嵐 いわゆる〝内ゲバ〟、党派闘争が激しくなりますが、いかなる思いを?
 機関紙『救援』の紙面に対立党派をなじるような文章は載せられないという水戸と、自由に書かせろというセクトの論理が真正面からぶつかる。「事務局会議では延々と不毛な議論が続いて僕はつるし上げられるんだよ」と彼は閉口していました。言葉以上に苦悩が見てとれました。それまでの救援連絡センター事務局員としての献身はなんだったのでしょう。組織温存のスイッチが入ると組織人は理性を失うのでしょうか。当時の残されたメモを見ると、悲しみだけが心に沈んでいきます。
 ここに一つの「共同声明」があります。一九八四年一〇月五日付、署名者は鎌田慧さん、女川の阿部宗悦さん、高木仁三郎さんら六〇〇人を超えます。「七月未明、……片足を大腿骨から切断せざるを……自派と見解を共にしないもの、采配に従わぬ運動に対する一つの党派勢力による一方的な襲撃、暴行……七〇年代に激しく行われたいわゆる〈内ゲバ事件〉とそれを巡る……不毛な抗争はそれまで反戦・反抑圧の運動に共感を持ってきた幅広い支持層を一挙に崩壊させるという結果をうんだ。……」。この声明文にクリップで止めた水戸のペン書きがありました。「七月初めにまた二つのテロが行われたことを知った時はもう最後だと思いました。もはや、三里塚反対同盟のどちらを……などということではないと思います。ともに権力に対して戦っている人民に対して意見の違い=たとえそれがどんなに重要なものであったとしても=を理由にテロルを加え、それによって、他の人びとを支配しようとする思想を認めるか否かという問題です。私はこのような輩を『革命党派』などと認めることはできないし、この人々と共に『反弾圧』を語ってきたかと思うとゾーッとします。その事態を制止できないようであるならば、私は自分の『救援』に何ほどか賭けてきた過去をすべて汚辱にまみれたものとして否定してしまいたいと考えています。このような気持ちを込めて、同封の共同声明の呼びかけ人になりました。よろしくご検討くださいますよう心からお願いいたします」水戸巖。
 ここに至るまでの、あらゆる手を尽くしての調整努力を知る私としては、この重い声明がもたらした効果をぜひ知りたい。激動の時代を真面目に生きようとして、その未熟さゆえに、命を落とし、職を失い、健康を害した多くの人たち。猛烈に腹立たしい半面、やはり彼らの傍らに立ちつくしたい思いも消せないのです。今、高まりつつある反原発の闘いの中で、しっかりとこの「声明」への彼らの答えを見届けたいです。
 救援連絡センターも、市民の力を借りてプラスとマイナスの評価をしっかりやり直す勇気を持ってほしいです。これからの闘いに備えて。


◆夫は反原発の先駆的な旗手だった

 小嵐 水戸巖さんがとても先見の明があったことがお話の中で出ました。水戸巖さんは、物理学のアプローチから反原発に入られたのですか。
 水戸 彼は、東大核研の頃は、宇宙線グループでした。宇宙から降ってくる素粒子を写真乾板にとって解析して、未解明な素粒子理論を導くというのがテーマです。山好きだから院生時代から苦も無く富士山や乗鞍に登って、グループに役立っていたのでしょう。甲南大の頃は山ではなくてバルーンに乾板を乗せる方法でした。最後の最後まで「素粒子論」の未知の領域に、心を奪われていましたね。活動が忙しい時も、時間を惜しんで夜中に机に向かっていました。物理に対する姿勢もそうでしたが、原発についても、大事なことは「問題は知識ではなく論理なのだ」と。事柄の本質をとらえなければならない、という点で、物理学も原発も彼は同じスタンスです。手元にあるのはコピーですが、「原子力発電所==この巨大なる潜在的危険性」という題名で、多分『情況』に載ったものだと思います。今、雑誌や講演会で話した内容を資料集にする準備をしていますが、なかなか進みません。
 小嵐 「ソ連の水爆の父」と言われたサハロフが、後に核実験禁止を提言したり人権と民主化を訴えると、ソ連政府から厳しい弾圧を受けるにいたりましたが、それにきちんと対応できたのは水戸巖さんしかいませんでした。その後、一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起こるわけですから、水戸さんの反原発はほんとうに先駆的でしたね。
 水戸 一九六四年に中国が核実験をした時に、「中国のやる核実験はきれいだ」という擁護論が出た時、二人で大笑いしたことを思い出しますね。当時、折々ハガキガリ版刷りの「水戸通信」を友人に送っていて「中国核実験反対」と書き送っていましたね。
 小嵐 水戸巖さんの反原発論の核心は何でしょうか。
 水戸 先ほどの続きですが、少し長いけど引用させて下さい。「七五年一一月現在一一基中九基が『故障のため停止中』。その故障たるや重大事故につながるものばかり。事故を含めて原発の危険性は、単に地元住民だけの問題であろうか、いやこのような言い方はすでに間違っている。……地元住民とは誰なのか。……例え事故がないとしても、原発の運転が行われる限り排出されていく再処理工場からの大量の放射性クリプトンやトリチウムは地球規模で大気や水を汚染し続けていく。再処理工場の高レベル放射性廃棄物は、数十世紀にわたって人類を脅かし続けることになるだろう。これらの問題は地球上に現在住むすべての……だけでなく数十世紀にわたる我々の子孫の問題でもあるのだ。しかし、『そのような問題は一部の専門家に任せておけばよいのではないか。大体原子核だの、面倒くさいし、主体的に判断できるとも思えない』という人がいるかもしれない。このような考えは間違っている。原発の危険性を理解するのに必要なものは知識ではない。必要なのは論理である。論理を持たない余計な知識は正しい理解を妨げることさえある。一例をあげよう。原子炉の中には広島原爆一千発分の死の灰が内蔵されている。その潜在的危険性を第一に据えるというのは論理の問題である。これを曖昧にしたまま、原子炉には、この死の灰を外に出さないための三重四重の防護壁があり安全装置があり、それは×××と△△△と並べたところで、広島原爆一千発分の潜在的危険性が消えてなくなるわけではない。取り返しのつかない巨大な潜在的危険性に対しては明確な論理を持たなければならない。それは判断の基準を最悪の事故が起きた時の結果に置くということなのである。交通事故と一緒にしてはいけない。この論理を抜きにした余計な知識は健全な判断を曇らせるだけである」(前掲論文)と。
 小嵐 まるで福島原発事故の原因と結果を先取りしています。
 水戸 この彼の考え方は、「死刑廃止」=「死刑は最悪の場合、必ずえん罪を伴う」にも、「国家権力の治安立法に抗する闘い」=「最悪、人権侵害に繋がるかもしれないものとは闘う」という姿勢にも一貫しています。いずれも「最悪の場合」にこそ本質が凝縮されています。
 小嵐 なるほど。やや唐突となりますが、一九八六年の暮、水戸巖氏と、双子の御子息(京大大学院生・共生(ともお)氏、阪大生・徹(てつ)氏)を失います。北アルプスの剣岳でした。聞きにくいのですが、その時の感情、思い、次の生へと行く時間のかかり方、生き方を語ってください。
 水戸 警察で包帯でぐるぐる巻きの遺体に対面した時も涙は出ませんでした。こんなことがあるはずはないと死を受け入れられなかった。息子たちにも会いましたから、全部で三回対面していますが、
 絶対に受け入れられませんでした。雪解けを待って山に入って一〇カ月の捜索でしたが、捜索隊を送り出し、迎え、三人の遺体を奇跡的に見つけてもらって、捜索隊にも大きな事故もなく――といっても一人は膝を大けがされましたが――、無事に終わった時には、大きな儀式が終わったという安堵だけがありました。さあこれで責任を果たしたのだから死ぬことが許されると、当然のように、死ぬことしか考えられませんでしたね。あてどなく外国をさまよってバックパッカーをやっていました。死に場所を探すのですが、いい方法が思いつかずに、ひたすら飛行機事故を願いました。心が荒みきっていました。
 立ち直るきっかけは、中国の貧しい山の中で子どもと交わったことと、一人でピースボートに乗ったことでしょうか。ピースボートで「非核ネットワーク通信」と出会い、山口県上関町の祝島や韓国、台湾の反原発運動に出会うことができました。親が私の助けを必要としていたことも幸いでした。でも一番の幸運は、不安で半歩が踏み出せない私を、「できるよ」と励まし続けて下さる友人がいたことです。六〇歳を過ぎて中国語を学び始めて、六九歳で中国の大学で日本語を教え始め、想像もしなかった充実した三年間を授かって、生きる自信がつきました。そこへ三・一一です。今は「日本の原発止めたよ」を冥土の土産にすることしか考えていません(笑)。
 小嵐 息子さんお二人は物理学を専攻していたんですね。
 水戸 大学受験するときは、兄弟だけで相談して決めたことなので、まさか二人とも物理を選んだことを知った時はびっくりでした。阪大に入った双子の弟は、新聞会活動で久米三四郎さん(阪大。関西で草分けの反原発学者)や浅野健一さんの講演会を開いていたようです。
 双子の兄は 大学院で京大防災研に進み、地震予知計測部門を専攻していました。「裁判でしっかり証言できる地震学者が少ない」という父親の愚痴を聞いて、その気になったようです。あの三人の結束の強さは、子守された頃の記憶かもしれません。赤ん坊のころにヘルニアの手術をしたことがありますが、看護婦さんに連れて行かれる時「パパ~」って大泣きして、「ふつうママっていわない?」と若い看護婦さんが首を傾げていました
 雪解けを待って初めて捜索に入った時、テントはしっかり残っていて、その中に三人三様に書き込みした「リー・ヤン」のプリント(註 一九五七年にノーベル物理学賞を受賞したリーとヤンの研究論文)を三冊見つけた時は、胸が締め付けられました。「三人登山」だけでも夫は幸せすぎると思っていましたから、同じ論文が読めるところまで育った息子を 嬉しく思わぬはずがありません。こんな仲良しなのだから、三人一緒でよかったと、今では思っています。女はこうしてしぶとく生きていけるのですから(笑)。
 小嵐 水戸巖氏への心を。
 水戸 私の中ではいつまでも五三歳のままだけど、もう八〇歳なんですね。三・一一の福島原発事故の直後は「どうしても巖を返して!」と必死に神に祈りましたが、今では、京大グループや東京のかつてのお仲間の皆さんが靴底をすり減らすようにして頑張っておられるのをみて安らかです。来週は、水戸と車を走らせ日本中の原発所在地の放射能漏れを調べ続けた京大の河野益近さん(原子核工学専攻)が、地元の学習会に来てくれます。水戸が直接存じ上げなかった方たち、福島の子ども集団疎開で捨て身の頑張りをなさっている柳原敏夫弁護士、井戸謙一弁護士たちも、「水戸です」と応援に行くと喜んでくださいます。彼はまだ生き続けていると実感できるのはありがたく、とてもうれしいことです。
 彼は逃げ出したくなる時の、私の防波堤ですね。「負けるな!」と言ってくれます。一人孤立しても逃げ出さない人でしたから。
 小嵐 若者に託す言葉を、どうかお願いします。
 水戸 絶望しそうになっても絶対死ぬな、と伝えたい。今生きていて、闘えて、本当に良かったと思えますから。もう一つあります。六〇年代、七〇年代から学ぶこと。そうすれば権力に追いつめられるのではなく、権力を追いつめ原発ゼロを実現する展望がはっきりと見えてきますよ。
 小嵐 なるほど。救援連絡センター時代の信念を今の若者にも伝えるということですね。ずかずかとつらいことへの質問もしましたことについておわびします。ありがとうございました。                              (おわり)
(インタビュー日は二〇一二年一〇月二二日)

▼水戸喜世子(みと・きよこ)氏=1935年、柴田釼造・かぎの長女として名古屋市に生まれる。54年お茶の水女子大学入学、翌年同大自治会執行委員長。60年東京理科大学物理学科卒業。同年水戸巖氏と結婚。61年京都大学基礎物理学研究所の文部教官助手(組織助手)に。67年に巖氏とともに10・8羽田救援会を立ち上げる。69年3月救援連絡センター結成、事務局長に。74年3月部落解放同盟大阪府連浪速支部の部落子ども会指導員に(78年まで)。86年12月の厳寒期、夫巖氏と双子の子息が剣岳で遭難、遺体捜索に入る。翌年10月捜索終了。うつ病の時期が長く続く。「非核ネットワーク通信」を通じて市民運動と出会い徐々に回復。2008年1月から2011年12月まで中国江蘇省建東学院の外籍日本語教授。

▼小嵐九八郎(こあらし・くはちろう)氏=1944年生まれ。作家・歌人。早稲田大学学生時代に学生運動に身を投ずる。94年『刑務所ものがたり』で吉川英治文学新人賞受賞。近著に『天のお父っと なぜに見捨てる』(河出書房新社)。他に『日本名僧奇僧列伝』(河出書房新社)、『悪武蔵』(講談社)、『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(講談社)、『歌集 叙事がりらや小唄』(短歌研究所)、『水漬く魂 五部作』(河出書房新社)、『真幸くあらば』(講談社)など多数。



●水戸巖氏略歴
 1933年3月、神奈川県横浜市鶴見に生まれる。戦時中、福島に疎開。当地の中学校を卒業して宇都宮高校に入学。東京大学理学部に進学。理学部自治会委員長。60年東大大学院修了後、柴田喜世子氏と結婚。甲南大学教員となる。同大学では労働組合をつくり、社会主義科学者集団を組織し、また安保闘争に参加。67年東大原子核研究所助教授となる。専門は原子核物理学。この年、10・8救援会を立ち上げ、69年に救援連絡センターを創立、妻喜世子氏が事務局長。71年頃から反原発運動にかかわり、日本の反原発を理論面、運動面で主導する役割を担う。特に茨城県水戸との関係は深く、東海第二原発設置阻止の市民運動が起こり、ついでそれが裁判にもち込まれると、「訴状」の作成段階から裁判の全過程を科学者としての知識と良心で力強く支えた。75年、芝浦工業大学電機工学科教授となり屋上に日本有数のγ線スペクトル分析機を設置して放射線の精密な監視を始める。死刑制度廃絶運動、狭山差別裁判の弁護側鑑定作成、警官のガス銃水平打ちによる東山薫君殺害を物理学的に立証するなど、多方面で活躍。長女晶子さん、双子の長男共生さん、次男徹さん。双子の子息と親子三人で厳冬の剣岳北方稜線に挑戦、86年12月30日消息をたった。







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