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評者◆池田雄一
なめらかな全体主義とその外部
No.3106 ・ 2013年04月13日




 ――この連載の第一回で取りあげましたけど、いとうせいこうの「想像ラジオ」が絶賛されてますよね。
▼あらためて確認すると、さきの大地震ではっきりしたのは、国民国家と言うけれど、じつのところ国家と国民はべつのものだ、ということでしょう。とくに原発災害にかんしては、国民と国家のあいだに走った亀裂がはっきりとみえた。これはもう国民と国家のあいだの戦争なんだ、と言っていいような状況があるとしましょう。
 ――え、そうなんですか。
▼いやだから仮のお話としてですよ。国民と国家のあいだに分割線が引かれているとしたら、右と左をふくめた政治的スタンスのマッピングもかわってくるよね。それはそうと、ここで問題なのは、いちど分割された国民と国家を、文学が再び媒介してしまうことがあるということでしょう。それは文学の問題でもあるし、想像の問題でもあるし、ラジオの問題でもある。つまり、ここではナショナリズムが起動しているのだけど、それが新しいマッピングのなかでどのように機能するのかが問題になるわけだ。
 そう考えると、蓮實重彦の講演録「「かのように」のフィクション概念に関する批判的な考察――『ボヴァリー夫人』を例として」(「文學界」)なんかを読むと、いろいろ考えさせられるよね。フィクションの論客にツッコミを入れつつ、小説家をもちあげるという、いつもの話なんだけど。フィクションにはふたつあって、ひとつは模倣、もうひとつは虚構。これはケーテ・ハンブルガーの説を援用してのことだけど、模倣は「かのように」で、虚構は「として」という言葉によって構造化されている。ここから蓮實先生は、文学から模倣的な要素を排除していくんだけど。
 ――講演録だというのがオチになっているわけですね。
▼これらのフィクションを、可能世界論とつなげるような話が流行っていたけど、鈴木健の『なめらかな社会とその敵』(勁草書房)は、この可能世界をそのままシステム化しようという、大それたことをやっている。
 ――たいへん話題になっている本ですが、そんなまとめかたでいいんでしょうか。
▼いや最近、やたら文明論が流行っているけど、あれ何なんでしょうね。たとえば、この本で言うと、生命システムを、核、細胞膜、ネットワークという、三つの位相にわけている。そして、この生命システムを、社会システムの隠喩として使っているのかと言えば、そうじゃない。社会システムも、じつはこの生命システムの延長だって言い切っているんだよね。こうしたホリスティックな語り方は、柄谷行人の『世界史の構造』、『哲学の起源』や、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』にもあるよね。中沢新一もそうだけど、いわゆるハイ・ナラティヴが、最近めだっている。
 ――そのハイ・ナラティヴって何ですか。
▼トールキンの『指輪物語』のように、ホリスティックな世界観を持った語りのこと。もちろん私が名づけました。それはそうと鈴木健だけど、彼の考えているシステムだと、たとえば暴力のような、存在そのものが神学的な性質をもっている行為はあつかえないんじゃない。けどそこをスルーしてしまうと、国家のようなハードウェアは、残り続けることになる。そうなると、ネットワーク型のシステムというのは国家の外部を吸い上げる装置として機能することになるわけだから、まずいんじゃないの。
 だいたい今問題とすべきなのは、「なめらかな全体主義」が作動しつつあるということでしょう。兵庫県のどこだかで、生活保護費の浪費を密告させる条例案が通ったらしいけど、これってすごいよね。適正委員に警察OBがいて密告の内容を吟味するって、すごくまずいんじゃないの? ここではネットワーク型のシステムが、すでに実現されているわけだ。
 ――でも「なめらかな全体主義」なんて、本当に進行しているんですか?
▼いやだから、あくまで仮のお話としてですよ。たとえば、現実がシミュラークル化していくなかで、その外部を直に語ろうという論客がでてきた。佐藤優や孫崎亨の登場によって活気づいている領域だよね。佐藤優もすごいよね。「私、シミュラークルの外部からきました」って人が論客なんだから。まるで宇宙人だよね。そういえば、昨年は響堂雪乃『独りファシズム――つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』(ヒカルランド)という本が出版されたけど、この本が、その究極の姿じゃないでしょうか。
 ――ヒカルランドですか……。
▼そう、陰謀史観が全開になってます。というか「世のなかは陰謀によって組み立てられている」という世界観にもとづく語りになっている。けど、システムの外部を語ろうとすると、多かれ少なかれ、こうした語りを採用せざるをえない。こうした「現実界の論客」とでも言うべき人の一方で、さきほどのハイ・ナラティヴの論客がいる。システムの内部でその外部を語るのか、外部を直截に語るのか、二極的な語りがある。これは、さっきのフィクションの話で言うと、いよいよ「かのように」によって現実を構成することが出来なくなっている、ということでしょう。
 そう考えると、阿部和重はつくづくえらい作家だと思う。陰謀論的なものに対しての、彼の感受性というのは、とびぬけているよね。世代もあると思うけど。
 ――そういうことで、そろそろ小説の話をお願いします。
▼今月は藤野可織「爪と目」(「新潮」)がいろいろと考えさせる作品だった。小説の語りというものは、言うなれば死者による語りだという観点が全開になっている。その意味では「想像ラジオ」と共通している部分もあるんだけど、この小説が特徴的なのは、語り手がそもそも成仏されようと思っていないところだよね。主人公である「私」が三歳の女の子で、その「私」の視点から、継母である「あなた」のことを語っている。つまりこの小説は、二人称で書かれている。ふつう二人称小説というと、「私」と「あなた」による、息がつまるような関係に窒息しそうになるんだよね。けれどこの作品だと、語り手がある意味死者以上に死んでいるから、逆にすがすがしいんだよね。
 ――死者以上に死んでいるってどういうことですか。
▼なんだろうね。たとえば、小説の語りでは、語り手が現場をみてきたかのようにふるまう。でも蓮實先生が言うように、書き言葉でそんなものが成立するわけがない。この小説の「私」は、継母である「あなた」のことを何でも知っているんだけど、これはむしろ「私」が報告者としてふるまうことを拒絶しているようにしかみえない。これは演技することに対してのサボタージュのみぶりなんだと思う。
 その一方で、この継母は、演技すること以外のすべてをサボタージュしている。人格そのものがミメーシスだという、あまり友だちにほしくないタイプだよね。最後に、この「私」が、「あなた」であるところの継母に肉弾戦を仕掛けるんだけど、この場面がぞくぞくするのは、ふたつのタイプの死者が交錯するからでしょう。何というか、「ゾンビ対貞子」みたいな。
 ――この話はこれくらいにして、他の小説はどうでしょう。「群像」では「新鋭9人短篇競作」という企画がありましたが。
▼澤西祐典の「砂糖で満ちてゆく」が頭一つどころか、三つ四つ、もしくは三〇、あるいはそれ以上抜けているよね。身体がどんどん砂糖になっていくという奇病があって、主人公の母親がそれにかかって亡くなる、という話なんだけど。砂糖になる身体のイメージがあまりにも鮮烈で、読者としては、どう反応していいのかわからなくなるよね。
 こうしてみていくと、例の「現実界」を、まるで「ゆりかご」のように過ごしてきた世代が登場してきたような気がする。たぶん中村文則あたりが先陣だと思うけど、これはただのアナクロニズムじゃない。むしろその逆だよ。
 あと、小山田浩子の「うらぎゅう」もかなりよかった。ストーリーはまったく覚えていないけど、ラストはやたら印象に残っている。ここをみる限り、彼女も「ゆりかご」世代なんでしょう。
――つづく
(文芸評論家)







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