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評者◆伊藤稔(紀伊國屋書店新宿本店、東京都新宿区)
知らない町の、こんなにおい、こんな空気──アルベルト・ルイ=サンチェス著『空気の名前』(斎藤文子訳、本体1800円・白水社)
No.3106 ・ 2013年04月13日




 私達は想像する。あるいは空想。自分が行ったことのない場所でも、こんなにおいがして、こんな味がして、こんな気怠さがあり、こんな爽やかさがあり、こんなあれこれがあり、そしてこんな空気。
 北アフリカの港町モガドール。さてどんな町なのだろう。本書の中でそこは白い城壁に囲まれ、三つの宗教の寺院があり、公衆浴場ハンマームがあり、当然港町なので船着き場がある空間として紹介されている。私が読んでいて感じたのは、埃っぽい乾いた空気と、港町の雑然とした、それでいて田舎ののびやかさのある雰囲気。そして妖艶さ。そこに住む若い娘ファトマがこの物語の主人公である。
 彼女は海辺の窓から水平線をぼんやりと眺めて過ごし、話もほとんどしなくなる。そしてそんな彼女に恋心を抱く何人かの男が現れるが、彼女は彼らに全く関心を示さず、あるときハンマームで出会った売春婦カディヤに恋をする。十六歳の女性である。しかしその後は、お互いに出会うことなく物語は終わっていく。内容を大雑把に言うとそんな感じになる。
 ここまで読んでいただいてお気づきかもしれないが、エンタテイメント性はあまりない。町の時間の流れや、ファトマの想像、あるいは男の妄想。それを詩的な、とても綺麗な文章で綴っている物語なのである。
 私は想像する。ファトマの目から見た町の空気。少女の体内で起こっている成長(あるいは性徴)の空気。そしてそこにあるだろうモガドールの空気。それぞれが交じり合って、あるいは離れて、バラバラになって、また入り交じる。たゆたう。空気というのは目に見えないし、いつどのように動くかわからない。だからとらえどころがないし、だがそれがないと生きていけない。あるいは生きていくところに空気が生まれるのかもしれない。モガドールという町で、若い娘ファトマの生活の一部分をさっと切り取ることで、その空気を味わわせる。著者自身が「自分の小説が、ストーリーや筋よりも、雰囲気そのものであることを目指して書いてきた。私の小説、その物語のなかに入ろうとする人には、何か新しい、驚きに満ちた空間のなかに入るときの感覚を体験してほしいと願ってきた」と言っているが、まさにその物語なのだ。
 読まれた後に、あなたはファトマの、そしてモガドールという町の日常をひと通り知ってしまった気持ちになるだろう。ファトマの暗い不安と熱情的な欲望を。ハンマームの熱気やそのなまめかしさを。月に一度起こる「にせものの夕焼け」とよばれる赤紫の薄いもやに満ちた真昼の町の時間を。そして彼女はどんな風に成長していくのか、この町はどんなふうに変化していくのか、あるいは本書のなかでは紹介されていないこの町の異なった場所など、その後の物語を想像せずにはいられないだろう。なぜなら日常は続いていくからだ。そしてきっとその想像の物語に、あなたの考えた「空気の名前」をつけたくなっていると私は思うのだ。







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