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評者◆三上治
マルクスを読む吉本隆明──マルクス主義の解釈を経たマルクスではない独自の像が創られた
No.3105 ・ 2013年04月06日




(8)三浦つとむと吉本

 1960年安保闘争を経て、知的にはマルクス主義の、政治的には日本共産党の権威の喪失は強烈であった。これはある意味で解放感を醸し出していた。梁山泊のような様相を呈した吉本宅での自由な思想的論議や場の雰囲気は、それをよく表現していた。既に述べたが、これはある意味で矛盾として心的に現象してもいた。なぜなら、この権威から自由になっていくことはよりどころとなる思想というか、言葉の喪失を意味していたからである。こういう現象は歴史の場面ではよくあらわれることかもしれない。敗戦期に多くの人々が味わったこととも言える。そんなことを自然に想像したが、第一次世界大戦後に多くの人が実感したことでもあった。
 もちろん、第一次・第二次世界大戦がもたらした権威の解体に比すれば、安保闘争のそれはスケールが違うだろうが、思想的な経験としては似たところもあったのだと思う。今になってみればマルクス主義や共産党の権威の喪失などさしたることには思えないだろうし、意識の対象にのぼることすらないだろうが、当時はそれなりに大きなことだった。世界史的にはロシア革命から始まる知と政治(革命)の物語がまだ生きていたからとも言えるし、日本での反権力的な抵抗の物語が存続していたからとも言える。1920年~30年代の思想の権威が存続していたこともあると思う。
 マルクス主義の理論が実践性の示唆を内に持つためとか、今世紀では乗り越え不可能な総合性を持つため(サルトル)とかいろいろ言われてきたが、結局のところ、マルクス主義が意識的(心身をあげた行為として)に世界を変えるという理念だったからではないのか。資本主義は歴史の無意識の最高の存在と言われるが、歴史を意識的に変えるという契機をマルクス主義が代表するところがあったからではないか。多くの知識人を魅了し、引きつけてきたマルクス主義の契機はそこにあったように思える。ロシア革命の権威も日本における反権力の抵抗の運動の権威もそれを根底にしていたのであり、それから見ればこの権威は相対的なものだったように思える。吉本がマルクス主義や日本共産党の知的、政治的権威の喪失の中で、マルクス主義ではなく、マルクスの思想を根底にして日本の反権力思想や左翼思想を再構築しようとしたときに、一番考えたところもここだったように僕には思える。
 吉本がマルクスを読んだのは、年譜によれば1949(昭和24)年頃であると言われる。川上春雄の作成した年譜ではこの頃に古典経済学や『資本論』を集中的に読むとある。そしてこの年に「ランボー若しくはカール・マルクスについての諸註」を発表している。戦後は継続的に読んでいたであろうが、意識的に取り組んだのがこの時期だったのだと思う。吉本が『マルクス紀行』と『マルクス伝』を発表するのは1964年だが、安保闘争後にまた集中的に読んだのだろう。そこではマルクス主義の解釈を経たマルクスではない独自の像が創られてもいた。吉本は『試行』で『言語にとって美とは何か』を連載し、他方で『丸山真男論』を書きながらマルクスについて論究していた。そしてこの時期に一番大きな影響を与えたのは三浦つとむであると思われる。三浦は吉本が一番尊敬していたマルクス主義者であり、『試行』から谷川雁や村上一郎が離れた後に吉本を支えた存在だった。

(9)谷川雁と吉本の違い

 ここで少し脱線するが、『試行』創刊から谷川雁や村上一郎が離れたころのことを記しておきたい。『試行』同人になったころの谷川雁は九州の中間市の大正炭鉱で労働運動をやっていた。この大正炭鉱で争議があり、青年行動隊をつくり1960年の三池闘争を超える闘いを組むと宣言していた。谷川には『原点が存在する』や『工作者宣言』などがあり、僕らはそれをよく読んでいた。日本共産党や総評の労働運動を超える労働運動を追求しているという期待もあり注目されていた。東京では現代思潮社の石井恭二や、まだ編集部にいた松田政男などが谷川の行動を支援していた。学生では犯罪者同盟をつくる平岡正明などが加わっていた。大正炭鉱の青年行動隊などを支援するために「後方の家」をつくるための活動もしていたのだった。
 僕が社会主義学生同盟「SECT6」のメンバーたちと大正炭鉱の支援に出掛けたのは1962年の春だった。たしか、僕らが泊まったのはできあがっていた「後方の家」であったように思う。現地では炭労系(総評につながるグループ)の執行部と青年行動隊を支持する面々が方針をめぐって一触即発の状態にあり、緊張していた。炭住(炭鉱労働者の住まい)を一人で出歩くことも禁じられていたように思う。青年行動隊のメンバーは、いざとなればダイナマイトを腹に巻きつけて炭鉱の奥深くにもぐりこむのだと意気込んでいた。生産点の占拠であり、占拠の思想を語っていた。こうした緊迫感の中でも僕らは夜になれば青年行動隊の面々と飲み屋に出掛け、強い焼酎とトンチャンと称していたホルモン料理に舌つづみを打っていた。こう言えばいくらか格好がつくが、若い炭鉱労働者の酒の強いのに舌をまいていたというところが実際だった。
 「後方の家」では青年行動隊のメンバーと革命談議のようなことをやっていたが、僕はそのころ「革命は比喩である」という観念に取りつかれていて、夢中になって喋っていたように記憶する。あらゆる形態を考えても革命をイメージできない現在では、革命はただ何かが変わる比喩としてしか言えないのだ、そんな過渡を僕らは生きざるをえないということだった。もう革命をイメージできる時代は終わったし、革命という理念もイメージも無限に解体していく時代をどう生きるのかと。青年行動隊のメンバーと思しき青年は、もう革命はこないだろう、けれども擬似革命のようなものはくると主張していた。谷川はこの議論を「革命比喩論と疑似革命論」として小論に取り上げていた。
 その頃、谷川雁は森崎和江と一緒に暮らしていた。その住まいをコンミューンと称していたように思う(記憶違いかもしれない)。特異な男女関係であり、ちょっと魅かれるところもあった。旧来の家族関係ではない男女関係というのは新鮮な気がしたのである。その後、森崎和江はその生き方と女性の立場からの表現者として魅惑的な存在になる。『非所有の所有』や『ははのくにとの幻想婚』『闘いとエロス』など、性と革命の問題の言及は斬新だった。この時に僕は谷川から、大学はやめて労働運動をやらないかと誘われた。自分としては割と真剣に考えたように思う。僕は、もう少し学生運動を続けたかったので、帰ってから吉本に意見を聞いた。吉本は否定的だったが、彼らの運動観の違いを垣間みた。吉本と谷川の微妙な関係を知ったように思う。
(評論家)
(つづく)







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