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評者◆杉本真維子
花の事故
No.3105 ・ 2013年04月06日




 強風の赤坂で、別れ際、手提げ袋に小さなフリージアの花束を入れてもらった。奥に詰め込んでは花が傷んでしまうので、角度を何度も確認し、慎重に袋に収めた。
 風はごおおと内耳を暴れ、身をかがめて坂道をのぼる。ようやく目的地に着いて、鞄をおろし、手提げ袋を見ると、花束がない。
 まさか風で飛ばされた? とたんに背後が真っ暗な闇で切れた気がした。急いで、来た道を引き返し、道端に目を凝らしていると、花束はあった。車に轢かれて、紙きれのように平たくなっていた。
 花束が交通事故に遭ってしまった……。一緒にいたひとがぽつりと言った。すぐさま抱き上げ、胸元へもってくると、轢かれた花束のすがたは不意に鋭く私を切りつけた。花は人なり――それは初めて視覚化された、踏みにじられてくしゃくしゃになった感情でもあった。かわいそう、という普段は安易に使わない形容詞が、換言できないものとなって、口から零れつづけることを、もう一人の自分が静かに見ていた。腕のなかでぺしゃんこになった黄色い花弁をそっと撫で、花の顔を見つめた。たしかに顔があった。目さえあった。そのときフリージアは、私にとって花でありつつ、花ではなかった。
 周囲を見上げると、首相官邸、国会議事堂がある。立派な建物であるほど、冷やかで、轢かれた花束とは何の関係もないことを主張する。相変わらず風は、吹き飛ばされそうなほど、からだを押してくる。早く帰ろう。今ならきっと間に合う。
 電車に揺られながら、最近、知らない女性に話しかけられることが多いことを、なぜか思い出していた。それも、ねえ、と、きまって私の右腕をとつぜん軽く掴み、尋ねてくるのだ。
 ねえ、そのコート暖かそうね、どこで買ったの?
 ねえ、先日あのお店でこんな怖いことがあったのよ。
 ねえ、娘の謝恩会の衣装をレンタルするんだけど、あなたならどれにする?
 ねえ、私、御殿場から来たんだけど、山のほうと気候が違って、こんな格好してる人っていないのね。恥ずかしいわ。ところで、この辺りに花屋はないかしら?
 悪い気はしなかった。むしろ、何となくうれしかった。ただ、こんなことがずっと続いているのは奇妙だと思った。とくに花屋の話は止まらず、30分くらい聴いていた。葬式に行くと言っていた気がする。花屋と葬式。私とは全く関係のない話だったが、交通事故にあった花束を抱え、これから何かをしようとしているこの状態は、彼女の比喩だろうか、と考える。
 水のなかで茎の先端を鋏でカットし、空気に触れないように花瓶の水に移すこと。それを続けると切花は長持ちすると、以前、知人の華道家が教えてくれた。その通りに、フリージアを注意深く花瓶に移す。傷口から滲む花の血を紙で吸いとる。あとは何? 何が必要? ほんの少し傾きかけた太陽の光を、引き伸ばすように花に浴びせる。
 午後、別室から覗き見ると、花弁が二枚、微かにふくらんでいた。まだ生きていた。これからしようとしていた何かが葬式ではないことが証明され、知らない誰かと私の道は安堵のなかで分かたれた。
 「誰かの比喩になる生なんてないのよ」――傷だらけのフリージアは誇り高く香ってみせた。重なりそうで重ならない、あまい距離をのこし、固有の生のすがたのために、私もまた、フリージアと分かれる。
(詩人)







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