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評者◆三上治
吉本隆明が生涯の闘いとして挑んだこととは──世界へ関わるために、安保闘争後の吉本の仕事をふり返る
No.3101 ・ 2013年03月09日




(2)現在に対する実感

 吉本は現在を「戦後第四期」と規定しているが、どういう文脈で使っているか正確にはわからない。ただ、今(2010年6月時点)がその始まりだという感じで言っているから、その内容をこれから展開しようと思っていたのだろうと推察できる。この中では、まだ何かが足りないから見えてこないとも言っているが、自己の内在的な世界と外在的な世界の乖離感というか、剥離感が強くなっていると感じているのは明瞭だ。吉本流に言えば、自己の心身の活動としてある小人類史と、いわゆる人類史(政治、社会、文明、文化等)を自己の内で相渉らせることの困難性の深まりを現在として把握している。政治的には沖縄の普天間基地移設が大きく浮上していた時期であり、すぐに2011年の3・11がやってくるが、吉本が自己と世界の関係で見ていたことは僕らが現在に感じていることであるようにも思う。僕らが経験的に日常的にある場所で動き、判断していることには格別に見えないことがあるとは思っていないけれど、世界の動きについて認識したり判断したりしようとすると見えないという思いが増す。水面下で泳いでいる分には世界が分からないことはないが、水面上で世界を見ようとすると段々と分からなくなっていくという実感がある。ここでの孤立感と言うか、手触りのなさを僕らは感じているのではないか。
 吉本のこの口籠ったような語りで表現している現在に対する実感は、政治的な運動の中にもある。自分の中では意識的に世界を認識し判断しようとして以来の構図が段々と大きくなってきたのだと思う。これは1960年安保闘争以来のことだと言える。幸か不幸か、僕は安保闘争で自分たちの現実意識(現存感覚や表出意識)と政治理念や政治主題の間の裂け目のようなものを持って闘わざるを得なかったと述べた。そしてこれは自分の世界との関わりにおける原点のような位置を持ってきた。もっとも、あの安保闘争の日々にこうしたことを自覚していたわけではない。こうした意識に到達するのは総括と呼ばれた反省的な時期においてである。
 僕はこの時期に吉本に出会い、彼の自己と世界を相渉らせようとした思想的営為に共感したのだが、現在までそれは変わらなかったと言える。原発問題での見解の違いはあるが、それはそれだけのことに過ぎない。自己の現存感覚や表出意識にしか頼るものはなく、理念や主題に空虚や空白を見る他なかったのはそれ自体が歴史の流れとしてあるからだろう。だが、この歴史の流れは変わることのない構図としてある。吉本が生涯の闘いとして挑んだことは現在も続いている。吉本の個の時間と歴史的時間のある部分を共有したと思ってきた僕は、現在に挑むためにこそそれをふり返り反復せねばならない。

(3)梁山泊のようだった吉本邸

 現在が戦後の第何期にあるにせよ、自己と世界の関係で僕が原点と呼んだ関係は、構図を少しも変えずに深まる一方である。僕はここで安保闘争後の吉本の仕事を振り返ってみたい。これは回顧ではなく、時代の節目に何を考え提起していたかを振り返るためだ。僕らが現在をどう考え、何を提起しえるか、つまりは世界へ関わるためである。
 安保闘争は何かの終わりでありはじまりだった。これは誰もがそれぞれの立場で語ったことであった。こういうことは敗戦後にも言われたかもしれない。僕は先に僕らの安保体験とは現実意識(現存感覚や表出意識)と理念の裂け目を見たことだと書いた。これはその後に理念(革命的・政治的理念)の空虚性の発見となり、擬制という言葉がそれに投げかけられた。僕らが空虚性を見いだし、それに擬制なる言葉が付与されることと、それから解放され、自由になっていくこととは異なる。僕らが世界に関係し、関わるには何らかの理念、あるいはそれに類するものが必要だからである。
 僕は安保闘争の後に、1920年代から30年代に日本社会に登場した理念(革命理念・政治理念)が擬制的なものだと露呈しはじめたと認識した。戦前に一度は敗北し、敗戦で復活したものだが、大ざっぱ過ぎるかもしれないが、マルクス主義や民主主義として括っておく。僕は安保闘争後、政治運動や社会運動の側に身を置きながら、その解体と新しい政治理念や社会理念の創出を志向していた。時期的に言えば1975年頃までである。全共闘運動を挟んでそれが終焉していくまでと言ってもいいだろうか。この期間は運動から離れたり、また加わったりした。運動では僕らが擬制と呼ぶところの理念を媒介するほかない矛盾にあった。僕らの内在的な世界と理念は矛盾という他ない関係の中にあり、過渡である他ないという認識だった。
 吉本は1961年に『試行』を創刊する。彼には『芸術的抵抗と挫折』、『転向論』などがあり、安保闘争の総括として『擬制の終焉』を出していた。彼は安保闘争において全学連主流派や共産主義者同盟(ブント)を支持したために物書きとしての場で強いられる孤立に抗するためだと記している(『吉本隆明が語る戦後55年』第一巻、「60年安保闘争と『試行』創刊前後」)。自立をジャーナリズムという場を考え実践したものである。谷川雁と村上一郎を同人としての刊行であるが、吉本は谷川や村上との思想的な違いを了解しながら進めたと語っている。そのころ吉本宅によく出入りしていた僕は、そこで谷川や村上にも出会うことになった。60年の暮れから61年の『試行』創刊のころ、御徒町の吉本宅は梁山泊のようであった。これがどれだけ続いたかは明瞭でないが、このころが一番賑やかだったという印象がある。
 僕らは学生グループの遠慮なさで、誰かが吉本の家に行こうと言いだすと連れだって出掛けた。中大の駿河台校舎から御徒町はすぐ近くだったこともある。僕らは酒(トリス)と肉を持って出掛けていった。『試行』発刊の打ち合わせのためか谷川や村上はよく来ていたし、他方で現代思潮社の石井恭二は雑誌『白夜評論』の発刊を予定し吉本を口説きに来ていた。石井は晩年に道元の『正法眼蔵』の対訳をし、『性愛の知恵』、『親鸞』等の著作を出している。僕は現代思潮社にもよく出入りさせてもらったし、お金がなくなると本をもらって古本屋で売り飛ばしていた。また、森本和夫(ルフェーブルの訳者で『白夜評論』の常連執筆者)や澁澤龍彦などもよく出入りしていて顔見知りになった。この雑誌を舞台にサド裁判が起きるのは少し後である。
 吉本宅はいつも議論が盛り上がり宴会をやっているようであったが、思想的に自由な雰囲気の場は僕にとっては初めての経験だったが、後にも先にもこんな場はなかった。マルクス主義に対しても自由な論議があり、その知的権威から解放された。運動の場ではマルクス主義は権威を持ってはいたが、僕にはそれはなかった。安保闘争が共産党の権威だけでなく、マルクス主義の権威も崩壊させ、その結果として出てきた自由で豊饒な議論が展開されていたのである。この場の経験は政治運動や組織の場での議論の貧弱さとの対比を感じさせるものであったが、政治的な場の議論を相対的に見ることを身につけさせたと思う。
 村上一郎が僕は好きで、武蔵野の彼の家もよく訪ねていくようになった。彼は酒が好きでいつも焼酎の小さな瓶を持っていて、よくすすめてくれた。今の焼酎と違って匂いのきついものであったが、健康にはいいというのが村上の言だった。村上とはその後長く付きあいが続いた。谷川はこのころ九州の中間市の大正炭鉱で労働運動をやっており、確かあれは1961年の暮れだと思うが、支援のために日銀にデモをしたことがある。こちらは現代思潮社の方が応援していたが、中大社学同なども支援することになる。日銀始まって以来のデモと言われたのであるが、僕にとっては初めての逮捕を経験することになる。吉本や谷川には人々から熱い視線が向けられていた。
(評論家)
(つづく)







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