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評者◆池田雄一
上村渉「あさぎり」がすごすぎる件について
No.3101 ・ 2013年03月09日




 ――この3月で3・11から二年が経ったことになります。新刊を見ると、3・11関連、放射能関連の書籍が目立ちますね。
▼そういえば、一ノ瀬正樹『放射能問題に立ち向かう哲学』(筑摩選書)という本がでました。著者の一ノ瀬氏は、英語圏の哲学を専攻しているということもあって、分析哲学やプラグマティズムの観点から、放射能という観念をとらえ直しているよね。
 プラグマティズムって、たとえば、ある物質が「硬い」というのは、「ナイフで切ろうとしても傷ひとつ付かない状態をさす」というように経験を基盤にして意味を明確化していく方法だよね。最初から「硬さ」というものがあると考えないよね。
 おなじように、「安全」という言葉があるとして、その意味を観念的に考えるのではなく、それがどのような経験に帰着するものなのかを吟味していくのが、この本の眼目だと思うんだけど。
 それはそうと、この人の立ち位置は、いわゆる「QOL(quality of life)派」に属するものだよね。
 ――いわゆるって、いったいどなたが仰ってるんですか。
▼そりゃ俺しかいないよね。『放射能と理性――なぜ「100ミリシーベルト」なのか』(徳間書店)を書いたウェード・アリソンなんかも、QOL派に入るんじゃない。この人はガチで原発推進派だけど。あと印象としては、やはり医者に多いような気がする。
 たとえば、手術のあとで、抗がん剤を使うというのは、とにかくがん細胞をひとつも残さないという発想だよね。でも抗がん剤を使うと、著しくQOLが下がってしまう。場合によっては死んでしまうこともある。絶対的な安全を確保しようとすると、QOLが下がるばかりでなく、安全でもなくなるという事態におちいるわけで、QOL派の人たちは、そのことを問題にしているんでしょう。無理して絶対に安全であるような状態をつくりだすより、住民のエコシステムを維持するという考え方だよね。
 でもこれって、いわゆる「ゼロベクレル派」とは、完全にバッティングする立ち位置だよね。一ノ瀬先生には、ゼロベクレル派との公開討論でもやってほしいよね。いずれにしても、安心というのが、何がおきても安全であるという心的状況のことを意味しているとすれば、安心という言葉は、もはや使うべきではないし、安全という言葉も、安心の比喩として使うべきではないよね。
 ――そろそろ小説の話もしてくださいよ。
▼そういえば、今回は力作ぞろいだったよね。青山七恵の「快楽」(『群像』)なんか読むと、むかしコンビニで立読みしたレディースコミックを思い出すよね。これは、イタリアのヴェニスを旅行する二組の夫婦の群像劇なんだけど、これを読むと「市民社会って、いったい何なんだろう」って考えさせられる作品だよね。
 四人とも洗練されたコミュニケーション様式を身につけた、いわゆる市民様なんだけど、それだけに主体的であることを、どこか投げてしまっている。唯一の主体化の契機が、セックスをふくめた享楽だというのが、この作品の眼目だよね。
 こうした主題は、『ボヴァリー夫人』以降、前景化してきたものだろうけど、青山七恵には、ぜひとも単行本の刊行にあわせて朗読会を開いてほしいよね。
 ――完全に趣旨がちがっていると思いますが。
▼綿矢りさの「大地のゲーム」(『新潮』)も力作だよね。震災という出来事を、小説的な想像力でいかに加工するのか、加工することによって、新たな世界を見せることができるのかどうかが試される、力の入った作品だよね。
 大地震を契機に、学生たちが大学に住むようになって、そのうち学生運動をするようになった話だけど、読んでいると、何故かバブル期の学園祭と、小学校のときにみた『未来少年コナン』を思いだすよね。「大地の賭け」という実存主義的なテーマと、ボーイ・ミーツ・ガール的なドラマの展開、この組み合わせがたまらないよね。あと学生運動のリーダーが、どこか松本哉に似ているような気がするんだけど。
 ――そうですか。上村渉「あさぎり」(『すばる』)はどうでしょう。
▼今回とりあげるなかでは、一番よかった作品だよね。すごいよね。「大地のゲーム」よりいいんだから。もっとも著者の上村氏は、たしか文學界新人賞を受賞したときには、選考委員から絶賛されているはずなので、意外でもなんでもないんだけど。
 一見すると、オーソドックスというか、自然主義的なモードで書かれているようにみえるんだけど、じつは全然そんなことがないというのが、この作品の眼目だよね。弁当屋を営んでいる主人公のところに、職場体験ということで中学生が派遣されてくるんだけど、そのなかの「田代」という女子が、家で虐待されていることが判明して大慌て、という話だよね。
 この田代が放火事件に巻き込まれて、というか放火事件の共犯者となってメディアにとりあげられるんだけど、その時に、主人公とその娘とで、田代にかんしての「ノート」をとりはじめるんですよ。その下りがものすごくいいんだよね。それ以降は、語りの位相が微妙にかわって、最後にはいつのまにか主人公の願望が語られているあたりが、泣けてくるんですよ。その一方で、生活そのものが持っているグダグダな感じがものすごくよく出ている。まるで怪談だよね。つまり、ほとんどぜんぶ形而下にある「生活」のなかから、「のぞみ」のようなものが立ちあがってくる瞬間をとらえた、ある意味で宗教的なともいえる主題をもった作品だということになるよね。
 ――今回の『すばる』は、上村さんの作品をはさんで、墨谷渉「俺の革命」と、木下古栗「人間性の宝石 茂林健二郎」が掲載されていますが。
▼いや本当に、この三つをたてつづけに読むと、何が何だかわからなくなってくるよね。「俺の革命」は前半と後半で真っ二つに分かれているよね。前半部分は、不動産会社で営業をしている主人公が、職場で虐められる残酷物語。後半は、そんな主人公が夢にでてきた幻の女性を探して旅にでるという話。それで、結果として、それらしき女性があらわれて、主人公とねんごろになるんだけど、判明するのは、彼が性的にまったく不能であるというオチ。セックスしているときに、女がゲラゲラ笑っているのが怖いよね。そういう意味では、やはり現代の怪談なんだけど、最後の一行で、急にヒューマンな展開になってしまっているのが惜しいよね。
 あと「人間性の宝石 茂林健二郎」を読んでいると「下ネタって、いったい何なんだろう」って考えこんじゃうよね。考えてみたら、下ネタって高度に文化的な営為だと思うんだけど。下ネタが持っている享楽は、完全に言語的な享楽で、それを享受できるのは、言語が完全に不能であることからきている。そういう意味では、さっきの「ゲラゲラ笑い」に似ているよね。でもそうだとすれば、下ネタの「下」っていったい何なんだろう。また眠れなくなっちゃうよね。
 考えてみれば、言語が不能であることを強調するためには、なかばシミュラークル化された指示対象が必要となるわけで、この作品では「熟女AV」なんかがそれにあたるよね。
 ――これも震災が舞台の阿部和重「In A Large Room With No Light」(『文學界』)はどうですか。
▼阿部和重は、言語の不能という事態を、早くから捉えていた作家で、谷崎が好きだというのも、そういうことだよね。彼の場合、その言語的不能という事態が、作品における主題として具現化されている。今回の作品でも、この不能という観念は、最後に前景化する「浮遊」という主題として具現化されるよね。
 そういえば、前に、阿部和重と綿矢りさを、「パンク系」に属するって言ったことがあるけど、意外とあたっているよね。阿部和重って、何かジョン・ライドンみたいなところあるよね。自らが不能であることに乗るみたいな。「大地のゲーム」も、どこか「オイ・パンク」みたいなところがあるよね。
 ――はじめに言ったとおり、震災からそろそろ二年が経ちますが、震災と文学について、なにか言ってください。
▼震災の映像と文学って、国民意識に対して、構成的に働きかけることができるという意味では、似ていますね。「大地のゲーム」や「In A Large Room With No Light」を読むと、震災というか、復興支援ソング的なものとの制空権争いに参入しようという気概を感じるよね。木下古栗的な意味論的サボタージュの身ぶりも買いたいけど、やはり「あさぎり」から立ちあがってくる「のぞみ」の印象がつよい。あんな地味な作風なのに、もっとも強度を感じるというのが、面白いところだよね。
――つづく
(文芸評論家)







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