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評者◆三上治
原発問題の考えどころ──原子力エネルギーを作り出してしまったことからどう撤退するかが現在の切実な課題である
No.3098 ・ 2013年02月16日




(7)「科学技術としての現実性」

 「科学技術は押し戻せないのだから原発からの撤退はありえない」というのがこの間の原発事故に対する吉本の考えであった。これは当然、福島第一原発事故を契機に大きく出てきた脱原発―反原発運動への批判でもあった。事故当初の沈黙や従来の考えの揺らぎが推測される過程から自己の見解の表明に至る段階でこれは鮮明になってきた。これがいつ頃からかは定かではないが、12月の『週刊新潮』の記事はそれを明瞭にしたと思われる。そのころ批評社の小冊子である『ニッチ』は「科学技術をめぐる問題」の特集を企画していた。メインは吉本のインタビュー記事であった。僕もそれに原稿を寄せることになっていた。2011年の12月には刊行予定であったが、直前になって吉本のインタビュー記事は掲載中止になった。僕の原稿はそのまま掲載され、2012年になって雑誌は発行された。
 週刊新潮の記事が公表されたのだから、そのインタビューも公表されていれば吉本の考えがより明確になったのではないかと思うと残念だ。「反原発で猿になる」という表題は新潮社の記者が勝手につけたものであろうが、『ニッチ』の方が中止になってこちらが公表されたのはどうも納得がいかない気がした。吉本の方での配慮がいろいろあったのかもしれないが……。
 僕はインタビュー記事を念頭において、推察して論文を書いた。「科学技術の可能性と現実」がその題である。これは吉本の科学技術論に対しては科学技術の現在という問題、そこで生じている現実について違和を感じているところを書いた。原発事故が提起しているのは「科学技術の可能性」ではなく、「科学技術としての現実性」であり、これは逃れようのないことだと思った。原発の存続をもし科学技術の問題から論じるならその現実性においてでなければならないし、その判断が重要だ。
 現在、原発事故で直面しているのは科学技術としての現実性である。この現実性の中で科学技術としての核技術を問えば問題は明瞭になるように思える。原子力エネルギーの制御技術一つを取ってみても、使用済み核燃料の処理問題を取ってみても如何に危ういかは明瞭である。人間の開発する技術にはリスクが伴うという一般論では済まされない現実がある。核の事故は桁違いの規模の被害をもたらし、また、何世代かに渡るものであり、原発の存続の中で併行して解決していけばいいという水準をはるかに超えているのである。
 核生成の解放を制御する技術は科学技術である。それは既にできているという安全神話が崩壊したことは誰もが認めることだろう。そうであれば、今度は完璧の制御技術を求めればいい。なぜなら、科学技術にはその可能性があるのだからという考えは分かる。しかし、完璧な制御技術は現実としては考えられないし、当面は不可能に近いなら別の判断をしなければならない。不全で不透明な技術のままに核生成を解放してしまった事態をどうするかが問題であるからだ。福島第一原発の事故だけでもいまだに収束の見通しはたっていないが、これから考えられるのはこれだけではない。

(8)「社会性」を失いつつある原発

 僕は不全で不透明な技術のままに作り出してしまった原発に完璧な制御を施すというよりは、その廃炉を考えた制御技術のほうが必要であると思う。原子力エネルギーは人類が手にしてはいけないエネルギーであると僕は考えるが、それを作り出してしまったことからどう撤退するかが現在の切実な課題であり、そこにこそ科学技術の力を注ぎこむべきである。ここが原発問題の考えどころではないのだろうか。吉本の科学論はマルクスの自然哲学からきているのであり、それ故にそこから論じないと明瞭にはできない。エコロジーに対する吉本の見解とともに次回あたり、そこに触れたいが、さしあたり、原子力エネルギーについての科学技術の現在を僕はこんな風に見ている。進むも地獄、撤退するも地獄、それが原発の現在であるが、吉本はその暗い語りでそれを示している。吉本はけして楽観的に見てはいないが、僕はもう撤退してしまえ、それだって大変だぜと思う。吉本にはかつて科学技術者であったこだわりが強くあるのだろうか。
 僕は、アジアの地域にかつて隆盛する文明を築いた灌漑施設等が廃墟になった光景を思い浮かべてしまうことがある。アジア的生産様式と呼ばれた文明は砂漠の果てに残骸をさらしている。しかし、原発はこのような廃墟として放置することすらできないのである。廃墟にするにも、開いてしまった核があり、その始末も大変なのである。
 今回の原発事故が問うている問題には核生成の解放(原子力エネルギー)の産業化ということがある。あるいは、また、原発を推進してきた体制の問題がある。これは原発の存続に関わっている体制、あるいは社会関係の問題である。吉本は核生成の解放は科学技術の問題だから、社会関係は関係ないとしてあまり言及していないが、これは重要なことであると思う。この日本列島に50基もの原発が現在あるのは戦後の高度成長と無縁ではない。日本に原発が導入されるには幾つかの契機があったろうが、一番根本にあったのは経済の高度成長にほかならなかった。原子力の平和利用、夢のエネルギーとして流された幻想には異議申し立てをする人もいたが、それなりに機能した。だが、ここ何年か高度成長に対する疑念は広く浸透してきている。経済の高度成長の幻想は現在も依然として存在しているが、成長戦略という言葉が流通している。アベノミクスの三本の矢の一つは高度成長である。しかし今、高度成長経済から成熟経済への転換は不可避であり、原発の経済社会的基盤は減衰している。その推進を画策している官僚と電力独占体などは既得権益を持つ面々であるが、原発は産業面での社会性を失いつつあるといえる。
 原子力ムラ、霞ヶ関の中枢にこんな村があることは夢にも思わなかったが、これは原発と権力の関係を示している。日本の権力の非民主性、あるいは閉じられた構造を原子力ムラは象徴をしているところがあるが、日本における政治権力の官僚的構造を示してもいる。今回の脱原発や反原発運動はそれを闘いの対象としており、社会性がある。
(評論家)
(つづく)







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