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評者◆三上治
文明の現在について──原発事故は、思考の観念性をどう超えていけるかを突きつけているのだ
No.3096 ・ 2013年02月02日




(3)人類の究極の課題

 毎日新聞夕刊(5月27日)の発言は原理的な意味では従来の見解を再確認しているものと言えるが、原発反対の運動については考えを変えているのか、と思えた。僕が4月のはじめに訪ねた時もそう思えたところがあったのは既に記した。『反核異論』以降の原発についての発言では、原発の原理的(科学技術的)観点での容認と反原発運動批判は一緒にされていたから、そこは変わったのか注目した。この夕刊の発言では反対が多数になって廃止になることも予想していたわけで、自分の判断を超えているところがあると述べていた。この原発の存続についての原理的発言と反対運動に対する視点が分離をしているように見えたことは、「3・11」の衝動のもたらしたものだと思った。
 「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」(『思想としての3・11』収録)が出たのは6月末だが、インタビューは4月22日だから発言としては前のものである。この中で吉本は原発事故に関する質問について次のように答えている。
 「それについても原理的な言い方をします。…もっとも根本的には、人間はとうとう自分の皮膚を透過するものを使うようになったということですね。人間ばかりでなく生物の皮膚や骨を構成する組織を簡単に透過する素粒子や放射能を見出して、物質を細かく解体するまで文明や科学が進んで、そういうものを使わざるを得ないところまできてしまったことが根本の問題だと思います。それが最初でかつ最後の問題であることを自覚し、確認する必要があると思います。武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使うところまで来たことをよくよく知った方がいい。そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった」
 人類の究極の課題が出てきているというのは吉本のよく提起したことだが、ここでは吉本は原子力エネルギーをそうしたものとしている。素粒子や放射能を見出し使うところまできてしまった文明の現在ということだが、こうした点の認識について異論はない。その利用や禁止の方法をとことん考えようということも、またそうである。福島の第一原発事故を見て従来の原発安全神話、つまり危険の技術的制御は出来ている、というのは崩壊した。この新しい事実をどう考えるかということに僕らは直面した。吉本は利用する方法のみならず、禁止の方法も含めてとことん考えようと提起しているのだが、この限りでは特別なことを述べているわけではない。後に禁止を提起する部分への批判を強める言動が出てくるがこの段階ではそれはまだはっきりしてはいない。


(4)吉本はなぜ原発容認であったか

 ここにどういう問題があったのだろうか。福島第一原発の事故が起きるまで原発安全神話が流布していた。それに疑念を抱く人たちも存在したけれど、その間には中間的な考えも存在した。例えば、原発には反対だけどその危険についてはそれほど考えを突き詰めてはいないという人たちもいたのだ。僕もどちらかというとそれに属していたというべきだった。
 山本義隆は原子力エネルギーを人間が手にしてはいけないエネルギーであるとしながら、その認知の難しかった由縁をそれが理論的な産物であったことに求めている。
 「経験主義的にはじまった水力や風力といった自然動力の使用と異なり、「原子力」と通称されている核力のエネルギーの技術的使用は、すなわち核爆弾と原子炉は、純粋に物理学理論のみに基づいて生み出された。…《中略》その結果はそれまで優れた職人やキャパシティーの許容範囲の見極めを踏み越えたと思われる。実際、原子力(核力エネルギー)はかつてジュール・ヴェルヌが言った〈人間に許された限界〉を超えていると判断しなければならない」(『福島の原発事故をめぐって』山本義隆)
 原子爆弾については、その現実の姿が広島や長崎で見せつけられた。その破壊性と存在そのものが否定さるべき実体を人々に経験させた。この経験は核兵器を持つにせよ、使用をとどまらせる大きな契機になってきたと見なし得るだろう。これに対して原発の場合は、事故によって初めてその危険性を人々に経験させる。これは人間の思考が事実をどこまで開いていけるかを試してもいる。思考の観念性をどう超えていけるかを突きつけているのだと思えた。
 僕らが物事をどう認識できるか、あるいは対象化できるかにおいて、経験主義が絶対的ではないことを知っている。何故なら、経験といったとき、既に経験を超えた先験的な考えが媒介されていることを知っているからだ。経験として取りだした言葉や抽象には、他者の経験が介在してもいるのだ。事実そのものと、事実として取りだしたものとは同じではない。これは前提である。しかし、事実は先験的な理念との現実の誤差を教えてくれるのであり、それは理念を開いていくことを可能にする。
 原発事故の事実は、「原発は安全である」という観念も、「原発は危険である」という観念も等しく検討を促すものである。ただ、僕は「原発のことは分からない」と放置しておいたことの根本がここにあったと内省する契機になった。原発安全神話の問題は、それが原発について考える契機を抑制したことにあるが、その秘密は経験的になる契機を持つことが困難であったことにもよる。僕は、吉本が何故に原発容認の考えにあったかをエコロジカルな思考への批判も含めて知っていた。それは今後の展開で語ることになるが、僕が吉本に魅かれてきたのは、その思考が事実に対して開かれていること、経験的であることだった。原発問題でも気にかけていたのはそこだった。
(評論家)
(つづく)







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