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評者◆三上治
「3・11」が吉本に与えた衝撃──原発についての吉本の従来の見解が変わることを期待していたが……
No.3095 ・ 2013年01月26日
二 「死の風景」、「精神の断層」を前にして
(1)脱原発は新たな社会倫理である 「3・11」が起こった後に、僕は吉本がどう考えているのかをあれこれ想像した。当然、1995年の阪神・淡路大震災の後の発言を想起していた。その頃、僕は何度かインタビューをしてもいたからである。1995年1月17日に死者6千人余の大震災として阪神・淡路大震災が、そして3月20日には地下鉄サリン事件が起きている。 吉本は1995年9月に、産経新聞で4回にわたってオウム事件についてのインタビューを受け、これが大変な波紋(吉本批判)をよんだ。このオウム事件の評価をめぐる問題は別の形で触れるが、この二つの事件を、戦後が変わるくらいの事件と評していた。そこで彼は、今、我々はむきだしの「死の風景」に出会い、そこで「精神の断層」を体験したのだ、としながら次のように述べていた。 「それから〈死〉の問題ですが、僕はだいたいあと10年か15年でこの社会は死ぬぜ、と思っています。死んだって後はあるわけですが、いまある社会、この日本で通用している社会というのは、もうどん詰まりにきていると思っています。自分が中流だと思っている人間が九割以上いる社会。これはもう変わる以外にない、死ぬ以外にない、死んで違うものになるしかない」、「ですから阪神大震災、オウム・サリン事件というのは、日本の社会の〈死〉の兆候を象徴的にしめしており、我々が次の社会に移行するために指針としてもつべき新たな社会倫理を突き付けているのです」(吉本隆明『世紀末ニュースを解読する』)。 これは二つの事件が吉本に与えた衝撃の大きさをあらわしていたが、「3・11」がこれに匹敵する衝撃を吉本に与えただろうと推察できた。阪神・淡路大震災の後、吉本は地域の住民の自発的な復旧の動きに対して、国家や自治体が再建計画という名で過剰に介入するのを危惧していた。公私の範囲を明瞭にして公的機関は関わるべきとし、官僚的な介入を警戒していたのだ。そして、また神戸が重化学を主体とする都市としてではなく、第三次産業(消費経済)を主体とする都市として復活するビジョンを語っていた。吉本は1995年を前後して「日本の戦後第二の敗戦」ということを語りはじめるが、この二つの事件から「死の風景」を見ていたことを具体的に示そうとしていた。 「3・11」が吉本に与えた衝撃が阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件に劣らぬものであったことは確かであるが、今回の事件に大きく違う点があったとすれば、原発震災(福島第一原発事故)がそこに存在したことである。僕はこの大震災、とりわけ原発震災にこそ、日本社会の死を見たし、死後の社会が脱原発を含めた社会の転換としてイメージされるほかないと思った。脱原発は新たな社会倫理である。そう考えた。以前から吉本は科学技術の観点から原発保持の必然を説いていた。彼は反原発運動の批判者でもあったから、福島第一原発の事故を目のあたりにしてどう反応するかが注目された。僕が2011年4月の初めに訪ねた時のことは前回記した通りだが、やはりこの問題は彼にも大きな問題としてあった。 (2)原発についての吉本の発言 吉本が原発についての見解を述べるのは事件の直後からではなく、いくらか時間を経てからであるが、この問題を熟慮していた時期があったのだと思う。僕は正直にいえば、吉本が従来の見解を変えることを期待していた。というのは僕が脱原発、あるいは反原発の立場で運動をしていたからではない。それは以前の『日本人は思想したか』(中沢新一・梅原猛・吉本隆明、鼎談集)で、原発の技術的克服という問題に留保をしていたところがあったからだ。中沢や梅原は原発について明確に反対の立場であったが、吉本は留保ということで再考の余地を残しているように思えた。この点はずっと引っかかっていたことだった。僕は原発については反対で、そこは吉本と見解が違った。ただ、あまり、積極的に脱原発の運動に関与してこなかったのは吉本の影響だったと思えるところがある。この点はいろいろ考えるところもあるが、別に反省すべきこととは思っていない。 「3・11」の後に原発についての発言を見たのは、2011年の5月27日の毎日新聞の夕刊だった。その後に『思想としての3・11』(河出書房新社)に収録された論文「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」を目にした。これは6月末に発刊されたもので、発言のインタビューの日付は4月22日になっているから、こちらの方が先のものかもしれない。ここでは毎日新聞の発言から見ていくことにする。二つのことが語られている。 「一つは技術や頭脳は高度になることはあっても退歩することはありえない。原発をやめてしまえば新たな核技術もその成果もなくなってしまう。今のところ事故を防ぐ技術を発達させるしかないと思います」、「人間の固有体験もそれぞれ違っている。原発推進か反対か、最終的には多数決になるかもしれない。僕が今まで体験したこともない部分があるわけで、判断できない部分も残っています」。 先の部分は、これまで吉本が展開してきた科学技術の観点から見た原発の必然性というものである。科学技術の後退はあり得ないのだから、原発の撤退はあり得ないということである。以前なら疑念をだきつつも保留してきたところだが、僕は納得できなかった。科学技術の後退はあり得ないということと、原発の存続ということがあまりにもあっさりと結びつけられていることに疑問を感じるのである。ただ、この時期に吉本は原発問題をどう考えるかで揺れ動いていたとも推察できる。 (評論家) (つづく) |
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