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評者◆吉田文憲
宙づりのルーティン化した空虚さに深く身を晒す──重層化された「わたし」が蠢動する「トゥンブクトゥ」(山下澄人『文學界』)
No.3094 ・ 2013年01月19日




 山下澄人の「トゥンブクトゥ」(『文學界』)を、さまざまな刺激を受けながら、興味深く読んだ。作品は「電車がトンネルへ入った。」と書き出される。「トンネル」に入った途端、物語の時間は別次元の世界へ入ったのかもしれない。一人称の「わたし」で統一されながら、そこには水族館のラッコ館で警備員をしている「わたし」の話があり、妻との関係がうまくいかなくなり蒸発を考えている男の「わたし」の話があり、得意先である布団屋を謝罪で訪れる若い女の「わたし」の話がある。重層化された「わたし」の並列的な蠢動である彼らはいずれもそれぞれに違う人生を生きながら同じ電車に乗っている。そして三人はどうやらそれぞれにのっぴきならないトラブルに巻き込まれ、いまは死んでいるらしい。ともあれ同時多発的に、Aの話があり、Bの話があり、Cの話がある。電車とはそういうさまざまな人間たちを乗せて走る乗り物であり、かつ世界とは構造的にいつもそういう成り立ちをしている、ということなのかもしれない。するとこの電車はあの「銀河鉄道」のように半ば死んだ者たちを乗せて走っているということなのだろうか。これが第Ⅰ部。
 第Ⅱ部は、死んだようにみえる三人がどこかの海岸に集い、沖で溺れかけている男の子を救助しようとしている。男の子は助かるのだが、その三人の傍でどこからか現れた見知らぬ男が、男の子をのぞき込みながら大声で怒鳴っている。そして「この子が起きなきゃあんたたちは起きられないよ」と言うのだ。第Ⅰ部とからめて、ここにどんな因果関係があるのか。もっともわかりやすい解釈は、Ⅰ部の三人の乗っている電車の中でずうっと老人が眠り続けているのだが、すべてはこの眠る老人の夢の中の出来事である、というふうにこの物語を読むことだろうか。そういう枠物語として、この物語を読むことを作者は妨げていない。けれども、この作品がわたしにとって衝撃的だったのは、海岸に集った三人の背後に書き割りみたいにジャングルがあり、そのジャングルを「大きなトラがゆっくりと歩いている」と書かれたあと、最後が次のように結ばれていることだ。《リンゴが、ひとりでにゆっくりと動いて、テーブルから落ちた。見ていたのはオウムだけだ。》
 このリンゴが落ちてゆく間に、何十年か、何百年かの時間が流れていてもいい。そういう、人間の生きている時間を、はるか無限遠点から一挙に相対化するもう一つのフレームをこの作品はラストに用意している。それはオウムの視点かもしれないし、オウムの視点が開示する言語化できない物語の空虚さにこの世界そのものが身を晒すことかもしれないし、そういう「意味」の果てた宙づりのルーティン化した空虚さにあらゆる現象が明滅しながら深く身を晒すところにこの作品のネライがあるように思われたことだ。晒すとは、人間の生きる時間、記憶が、世界の側から焼き尽くされる場所のことだ。「トゥンブクトゥ」とは、西アフリカの砂漠の果てにある、かつてのヨーロッパ人にとっては黄金に囲まれた幻の都市、楽園、ということらしいが、この楽園には人間はもういないのかもしれない。あるいは人間の生きている世界に楽園はありえないのかもしれない。そういう苛烈で酷薄な遠い視線がこの作品を貫いている。
 高樹のぶ子『カダケスの青い小箱』(『すばる』)に心を奪われた。サブ・タイトルに「香夜Ⅱ」とあるので、これもまた異界の光を浴びた、この世からあの世へ帰ってゆく「変化の者」の物語なのかもしれない。カダケスとは、サルバドール・ダリの愛した海、そのスペインの海岸の町の名前。この青い小箱には姉の喉仏が入っている。ダリの絵に魅せられた男と結婚し、家族を捨ててその地へ赴いた姉だが、帰国している間に、画家の男は姿を杳まし、行方を追った姉もまたおそらくはカダケスで死んだのであろう。これはだから、残された妹の、死んだ姉との時間を取り戻し、生き直す旅でもある。ところでカダケスとは、岩の岬という意味だという。この地へやってきた妹は、「姉さん、カダケスという名前は、崩れたり壊れたりする場所って気がする」と呼びかける。姉が結婚した男の名前も「崩」という。二人ともダリのカダケスの絵の魔法にかかって、その地で砂のように崩れてしまったのだ。姉の残した手帳をもとにした妹の旅は、すると、この崩れたカダケスを姉の言葉によってもう一度編み直し紡ぎ直す再生・鎮魂の旅とも言えるだろうか。ここではそのような「喪」の儀式が執り行われているのだ、と。青い小箱に姉の喉仏が入っているというのも、それがカダケス、人間の岩の岬であるからかもしれない。そして岬とはこれもまた異界の光の依り着く場所でもあるのである。
 木村友祐の「埋み火」(『すばる』)を面白く読んだ。中篇の大半が、上京した幼馴染の南部弁で語られる。語る男は方言、聞かされる男の側は共通語。旧友の語る南部弁の話は、聞き役の男の家の過去の罪状を巧みに暴き出す。だが、男には、その記憶がない。これは男が南部弁を忘却している分だけ、記憶もまた欠落している、といったらいいだろうか。言葉を失うと記憶もまた失われるのだろうか。子供の頃私は津軽弁を話していたので、そんなことをしきりに考えた。
 『文學界』新人賞二作では、二瓶哲也の「最後のうるう年」の方がすぐれていると思った。渋谷の性風俗業界を舞台にしているが、書き手の挫折感や敗北感がどこか無頼・アナーキーな熱気に転じる瞬間があって、その熱気に身を任せれば、作品の迫力はさらに増したかもしれないと思われた。視点人物が三村かと思いきや、この物語が架空の三村の記憶を脚色し、膨らませ、物語を作ってしまった小説家志望のエバラの手になるものであることが、最後に明かされる。この入れ換わりには、三村のような人生も、エバラやかつて知り合った他の誰かのような人生も「自分」にはありえたかもしれないという、流れ去った二十年の感慨が動いているのではなかろうか。そして、じつはそれがこの小説の核なのだ、と。作者はそのようにして自らの青春の終焉を告げているように思われた。
(詩人)







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