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評者◆添田馨
“人類”という言葉の中に眠る鍵──異貌の書、『人類の詩』(藤井貞和著、本体三二〇〇円・思潮社)
No.3090 ・ 2012年12月15日
藤井貞和の『人類の詩』(思潮社)は異貌の書である。雑誌や新聞に発表した時評や書評の集成にして、扱っている主題はもはやそうしたジャンル分けを完全に超出している。その都度取り上げる対象はさまざまでも、「ヒト」と「人類」、「死刑」と「戦争」、「国家」と「民族」といった大文字の主題が底部には一貫して流れ、途切れることがない。
「戦争と死刑とはこんにちにおいてもなお、国家によって行われる自立的な権利だというような意見が、日本では多数派にまわる。それは国家(による自立的な権利)だということになっているが、実体は民族という幻想的質を最低部での支えとしていると、繰り返すけれども見ぬかれるべきだ。国家とともに民族をこそ批判にさらさなければならない。」(38 戦争の原因、死刑)──なるほど、“国家”が堂々と遂行する殺人が“戦争”であり“死刑”である以上、両者は共に肯定されない。また、その国家をアイデンティファイしているものが“民族”なのだから、これも肯定できない。では、藤井はこの膨大な思考の集積を通して、一体何をそれらの対極に肯定しようとしているのか──およそこうした自問を待って“人類”というカテゴリーがそのバック・ヤードに選択された意味が、ようやく私にも分かる気がした。国家や民族以外のカテゴリーで人々の普遍的生存圏を輪郭づけようとすれば、当然そういうことになるだろう。では実体としてそれを万民に保証しているものは何だろうか。ひとつにそれは「憲法」だと言っているように私には聞こえる。 「こんかいの大震災という人類への挑戦が、まったき憲法違反であることを見る必要がある。」(明治憲法下での災害)──ここで言われる「憲法」は日本国憲法を指す。憲法の大きな役割は、現実に生じる違憲状態を逆照射することにある。「津浪」や「放射能災」は憲法第二十五条の生存権を毀損するから、完全に憲法違反なのだ。だとしたら、そうした「憲法」を最初に創るのは一体誰なのか。その鍵も“人類”という言葉の中に眠っているように、私には思えてならないのだが、どうだろうか。 (詩人・批評家) |
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