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評者◆西岡智(聞き手=小嵐九八郎)
水平社創立宣言の思想は生きている──狭山差別裁判糾弾の大運動は今も豊かな教訓を示す
No.3089 ・ 2012年12月08日




第21回
西岡智氏(部落解放・人権研究所名誉理事)に聞く
聞き手=小嵐九八郎(作家・歌人)

▼二〇一二年の今年は、被差別部落民自らの立ち上がりによる全国水平社が結成されて九〇年目となる。「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と結ばれる水平社創立宣言の思想は、一九七〇年代の狭山差別裁判糾弾闘争のなかで大きく甦った。その狭山闘争を中心的にリードし、その後も水平思想を今に継承・体現されている西岡智氏に、作家・歌人の小嵐九八郎氏がインタビューした。(大阪市矢田にて)

●苦労した母親はいつも貧乏人に優しかった

 小嵐 私、作家・歌人の小嵐九八郎です。今日は、お忙しいところ、しかも、二〇〇七年に膀胱癌、胃癌、大腸癌を切除し、腎臓にポリープができ、腹筋体操など肉体の原始能力に依拠して奇跡的快復を果たされました。部落解放闘争の荒々しい復権をめざして奮戦中の西岡氏にお会いでき嬉しい限りです。
 西岡 救急車で運ばれたけど、閻魔大王が三途の川で「西岡がこっちに来てしもたら造反分子が出て困る」言うて、嫌われて追い返されたんや。三途の川て、ありますね。皆、「化けもんや」言うとる。
 小嵐 遺言だと思って、大胆なご発言を期待しております。当方は、恥ずかしながら、一九七二、三年頃、「狭山差別裁判糾弾、無実の石川青年を奪還しよう」と、デモで逮捕されたことがあります。解放同盟員でもある中山武敏弁護士の接見の恩義を受けています。
 西岡さんの『荊冠の志操』(柘植書房新社)は、戦後部落解放闘争史を明るい呻きで記し、その総括を必死で探った貴重な本です。けれど、西岡さんの生の出発は、「満州事変」の発端となった九・一八柳条湖事件勃発の一九三一年ですよね。
 西岡 矢田(註 現在の大阪市東住吉区矢田)の部落で生まれました。お爺さんは西岡五郎左衛門と言うて、和泉信太(しのだ)の出身です。信太の話は『ある被差別部落の歴史――和泉国南王子村』(盛田嘉徳他著、岩波新書)に出てますが、庄屋をやってた。部落は日雇いや土方しかないから、月末払いです。女の人が借りに来ると米一合とか醤油一合とか貸して、「無理せんでもええよ。金がなかったらいつでもいいよ」と言うてた。「西岡の庄屋に行ったら返さんでも行ける」というので、これが回り回って、結局のところ倒産したんです。
 父親の五平は、本ばっか読んで、身体が弱かった。父は、めずらしく宝塚の少女歌劇の大ファンでした。本の読みすぎで大正デモクラシーの影響を受けてたと思うんですが、反天皇制やった。母親のコヤエは、着物のお針の先生で五〇人ぐらい弟子をもってた。あの時代は、部落でも子どもを養女にようやったりしてたんです。信太の金持ちの娘やったけど、養女になってもらわれた先が、矢田の岸本というて、光明寺の檀家総代をやっていた。養母きしえが博打の女親分です。西成区の飛田(とびた)に女次郎長がおりまして、それときょうだい分です。私らが小さい時、よう警察につながれよった。屋根裏伝いに逃げたりしてた。
 五女二男の長男でした。父が病弱だから、僕が働いてました。あの時分は、カマドの灰まで長男のものや言うてました。「兄さんがよう働いてくれるからうまくいってるんだ。そうせんと皆、離散してしまう」と言い聞かせておった。自分の苦労した体験から、長男に実権をもたせて絶対に家族が離散せんようにと考えていました。母親は自分が苦労してきているから、「角に立つ乞食には自分が食べんでも、飯をくわせてあげえ」と言ってました。
 小嵐 うーん、お母さんが苦労なされた…。自然の環境は?


●被差別部落のきょうだい同士が助け合い

 西岡 ドブ川が近くにあって、トイレは共同便所。八軒長屋です。女の人は丸見えや。雨の日、人糞が向こうから流れてくる。便所から出てくるその行き先をずうっと追うていくと、八軒から一〇軒に一つの共同井戸がある。そこが少し破れておって穴があいていたとこへ、ぽこぽこと人糞が流れ行くんです。そういう所で育ちましたね。
 自然があって、今こそワーストナンバーワンかツーですが、当時の大和川には鮎があり、めだかがあり、唐辛子草があった。夏の日に水が少なくなったら、石でこんこんとつぶして、ぱらぱらと撒くと、毒草じゃないんで、カニや海老やドジョッコも鮎も寄ってくる。大和川を越えたら阿麻美許曾(あまみこそ)神社という大きな神社があります。夏祭りなどで行くと、蛍が乱舞しているのを覚えてますよ。団扇で二〇匹ぐらいすぐ捕れたですよ。それを持って帰って、麻の蚊帳の中で蛍を放つ。神秘的な紫の、何とも言えん色です。家は穴だらけやから、地には蛍、空には星が輝いている。あなたも歌人やから、そういう情景は想像できるでしょ。
 雨が降ると、金ダライとバケツと釜を持って、あっち行ったり、こっち行ったりですから、眠れない。夜寝てないから、学校行って居眠りしますわな、先生は「夜遊びが過ぎるからや」と、状況を聞いてやらずに折檻するんです。教育者であれば、地域の環境をわからないで、何が教育やと、僕は、教師に対する不信はその時分からありましたね。
 小嵐 自然と人間のにおいのするお話です。私は、西岡さんのきらいな教師、日大芸術学部の非常勤講師をやっていて、みっともない。でも、それだけ自然と人間のからみが豊かだった。
 西岡 そうです。部落は悲惨だったという単なる悲惨史論ではまちがうんです。
 小嵐 そのころの矢田の被差別部落民の生活、人情などの印象を教えてください。
 西岡 八軒長屋とか一〇軒長屋でしょ、一軒家だったら倒れるんですが、それを太い丸太ん棒で支えているんです。メシがなかったら「隣に行っておいで」と茶わんを持っていくと、ご飯を炊いてるやつを薄めて河内粥にしてタクアン二切れぐらい載せてくれる。隣近所、皆きょうだいですわ。部落は皆、共同体意識で助け合う。
 ただし、ここが大事なポイントやけど、部落の中は一般のスラムとちゃう。金持ちもおる。貧乏人も最下層底辺がいるから、三段階に分かれます。富裕族は、頼母子講に一人で一〇ぐらい入れる。貧乏人は一人では入れんから貧乏人同士組んで一つ入れる。そやから確率的には皆金持ちにあたるわけです。そこで、金持ちは、貧乏人が今日明日も食えんから、二割ぐらいを天引きして貸す。そやから貧乏の上にも貧乏になる。私ら青年部活動をやっても、Aの方が正しいのに、AがBに対して文句をよう言わんということになる。それは母親や父親から「Bには金を借りててお世話になってるんやから、なんでもはいはいと従いや」と言われてる。そういう関係ができてるわけです。
 小嵐 厳しいお話ですな。
 西岡 金持ちはますます富裕族になる。格差社会の最たるものや。しかし、そこに人情がある。そやから、部落で自殺をする人はほとんどない。貧乏人は貧乏人同士、頼母子講でもろたやつを分けて食う。
 ただ、困るのは夫婦喧嘩が絶えないことや。なぜか言うたら、お父さんが日雇いや出稼ぎにいくでしょう。けど、働きに行っても仕事がない。部落のおかみさんは、天候を見る漁師と同じで、東の空を見る。空がテカテカすると一〇時ごろから雨が降るんです。お父さんが一〇時ごろ帰ってくる。そんな雨の日が続くと、だんなとして女に弱みを見せられんと、隣の朝鮮部落で、ばくだんと呼んでるイモ焼酎を二合ほどばあっとひっかける。おかみさんにしたら、子どもや食事の金を待っているのに、だんなが仕事もせんと酒を喰ろうて帰ってきたら、そこで夫婦喧嘩になるんです。男は負けてられんから、水屋(食器棚のこと)とか食器なんかを振り上げる。初期段階では誰かが止めに入るけど、毎度のことやから止めに入らない。家財道具をばーんと壊してしまうと、また高い利子の金を借りて古道具屋へ買いに行くことになる。悪循環がずーっとくり返すわけです。


●戦時中、愛国少年団の団長をしていた

 小嵐 戦争と敗戦の記憶についてお話ししてください。
 西岡 敗戦の時は一四歳やったね。それまでは、一〇〇〇人ぐらいの小学校で、愛国少年団の団長をしとったんです。僕の先生は、担任ではなかったんだけど、一九三六年の二・二六事件に関与した善見中尉で、それに特訓を受けたんです。私の姉の婿が泉海節一と言って、その弟が七つボタンの予科練でした。そういう影響もあって、もう一年、戦争が長引いておったら、たぶん僕は「特攻」に入って隼に乗って死んでるはずですわ。僕は、「朕惟(おも)ふに我か(わが)皇祖皇宗(こうそこうそう)國を肇(はじ)むること…」という教育勅語とか神武から始まる天皇の名前とか全部、暗記しとりました。
 その時に生徒会の会長をしとった。先生は勉強のできる子とできない子とを差別するんです。海水浴に行く金がないから、行基菩薩が造った池で泳ぐわけです。教師が二階から望遠鏡で見とる。小さいから、服脱いで「フリチン」で泳いで三分の一ほど行ったところで、教師が自転車でさあーっと来て、下着を全部持っていきよる。帰ったら怒られるから取りに行くと、軍国主義教育の時やから、教師が、校長室の横でバケツに水入れて立たせる体罰を加えるんです。そやけど、僕は勉強ができるから、「君は帰りなさい」と分裂工作をやってくる。僕は「わしは嫌や。わしが首謀者やから、わしだけ残して友だちは先に帰してやれ」と言うた。先生は「眼をかけてやっているのに何事や」と怒りよる。そやから、教師に対する不信感はますます強うなった。
 小嵐 大阪の空襲の時はどうだったのでしょう。
 西岡 矢田部落は一戸も焼かれなかった。
 小嵐 敗戦の日のことは覚えておられますか。
 西岡 生徒会長やから、全生徒を叱咤激励する役です。自分をいじめた教師に復讐する。校長の横で「頭ーっ、右」と号令をかけて、三年の担任に「何しとるか!」と叱りつけて、仕返しをするんです。家庭訪問すると、金のある家ではコーヒーに砂糖が出る。そういうのを「アン食い教師」と呼ぶんです。山城先生だけは、被差別部落のわれわれを可愛がったんですわ。皆は「山城、くさい」と言う。なんでかなと思うたら、後で聞いたら、沖縄出身やった。僕は、けんかは弱いけど、執念深いから勝つまでやるんです。そしたら「チョン公や(註 朝鮮人を蔑視する差別語)」と言われる。「朝鮮人はしつこい」と言われて嫌がられるんです。そやから、差別意識というのは根強いね。
 敗戦はショックでした。そこからニヒリズムに陥っていくんです。


●初恋の人が自殺、部落差別を強烈に自覚

 小嵐 一九四六年に私立浪速中学に入り、働きながら通っています。その時代の生活感情、友達との交流などを。
 西岡 そのころ天王寺駅から名古屋駅まで八時間ぐらいかかって闇市に買い出しに行くんです。小豆とか米を買うんです。豊川という干しイモとか生のサツマイモの名産地があるんです。帰りは乗ってくる人が一杯で乗車率二〇〇パーセントぐらいやから乗れない。どうやって乗るかと言うと、米や小豆の入っている袋でばーんとガラスを割って、身体は小さいから入り込んで、一等席の網棚に乗るんです。荷物を置いてすぐに学校に行くと、一睡もしてないから寝てしまう。教師は「西岡君は勉強のし過ぎや。そんなことしとると身体こわすぞ」と言う。わかってないんや。
 小嵐 中学校でも生徒会長をやっておられたんですね。
 西岡 そうや。言うたら悪いけど、いつも九八点とか、成績はダントツやった。私学は成績を全部張り出すんです。ボクシングも強い学校やった。そのうち五人まで、僕が勉強を教えるから、子分ですわ。生徒会長で校内を回ると、校長や理事長が「会長さん、お願いします。あの生徒が暴れてどうしようもない」とくるんですわ。ボクシングやっとる子に、「おい、軽くいけよ」と言うて、その子に一発入れるとひっくり返る。そういうことをやらんと学校が治まらん。
 当時は、僕は、部落出身やということが、何のことかわからんかった。周囲から「会長さん、あんたのことヨツや、エタや(註 いずれも被差別部落民を蔑視する差別語)言うとるよ」と言われたけど、ようわからんかった。
 小嵐 この頃、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読み感動されています。
 西岡 僕は小さい時から本ばっかり読んで、ロマンチストやった。本を読むと早熟になる。『赤と黒』なんか読んでると早く大人になりますね。『ジャン・クリストフ』はわけもなしに感動しました。ゴーリキーの『母』、トルストイの『戦争と平和』も読んだ。
 小嵐 大阪府立高津(こうづ)高校の定時制に進みます。
 西岡 高校のころは、くず買いの激しい労働をしてたから、痩せてて四五キロぐらいやった。一番高く売れたのはサントリーの角瓶で、箕面の別荘地帯に行くとよう出てくる。本は重いけど、古本のええのが出てくると、古本屋のおっさんが、普通は一貫目なんぼで買うんですが、特別に買うてくれる。衣類でも、ぼろで売ったら一〇分の一の値段でも、古着屋が一枚なんぼと買うてくれるわけです。
 吹田騒乱事件(一九五二年六月)の時のリーダーに「西岡君、一緒に行こう」と誘われたけど、こっちは毎日きょうだいを養うために働かなあかん。それに革命と言うたって、街に騒然たる雰囲気もなしで、電車を止めたぐらいで革命が起きるはずがない。これはやばいと。
 小嵐 直感でわかった。
 西岡 そう、生活の知恵ですね。
 小嵐 自殺を考えたというお話ですが、どういうことだったのですか。
 西岡 それは、労働が激しすぎてね、勉強したくてもできない。なんで、勉強したい者ができずに、金持ちは楽して勉強も大してしない。文学を愛好してると、感性が強くなるでしょ。物事を深く考える哲学的な人間になる。それに観念哲学をやってるから、どうしても突き詰めてしまう。僕は、生とはなんぞや、死とはなんぞやと、昔、一高生・藤村操が華厳滝から身を投げた(一九〇三年)というような自殺の本ばっかり読んでた。西田幾多郎の『善の研究』なんか一生懸命に読んでました。青年期に入って自殺を四回ぐらいしかけたけど、母親を悲しませるということで、やめた。今の格差社会における三〇代、四〇代の自殺ともちがうね。華田という子が「西岡さん、そんなん読んでたら自殺するよ」と言うて、それからマルクス・レーニン主義の労働者の天国をつくるんだという唯物弁証法的な哲学の影響を受けるわけです。高津の夜間高校の時代です。
 小嵐 西岡さんは、この前後、被差別部落民であることを知ります。どんなきっかけで、いかなる思いでしたか。
 西岡 部落民やと自覚したのは、自分の恋人が首吊り自殺したのが契機ですね。女優の山本陽子さんにそっくりな人にプラトニック・ラブや。告白でけんままにおったら、その人が東北の大地主の息子と一緒になるかという時に、その親が身元調査をして無理矢理別れさせた。彼女は自殺し、お父さんも野井戸に身を投げて後追い自殺した。それを後で聞いて、ほんまにショックやったよ。一八の時やったね。
 小嵐 うーむ。松本治一郞氏の自宅に寄宿するのはその後ですね。この頃の関心ごと、松本氏の思い出、印象を。
 西岡 本ばっかり読んでたけど、ほんとうは医者になりたかった。医者は一財産も二財産も食うんですわ。弁護士は司法試験通ったらええだけや。慶応大学の法学部の通信制で夏と冬にスクーリングがある。その時に松本治一郎さん(一八八七―一九六六年)のとこに客分秘書で入った。
 治一郎さんは、戦前の水平社から戦後の部落解放全国委員会や部落解放同盟まで終身委員長だった人です。皆、治一郎さんを先生、先生と言う。僕は反逆児やから、なにが先生や、なんで委員長と言わんのかと思うた。僕は一同盟員やけど、同盟員としては同格や。皆、金をもらうけど、僕はへそ曲がりやから、金は一銭ももらわん。治一郎さんは、「こいつは変ったやつや。痩せて、目だけぎょろぎょろしてて、最初は刺客やと思うた」と言ってました。
 治一郎さんは、参議院初代副議長になって天皇に会うた時に、よう言われるカニの横ばいをしなかった(一九四八年)。色んなエピソードがあるけど、あんなスケールの大きな人は時代が生むんでしょうね、今の政治家にはおらん。
 松本さんのことを書いた本には出てこないけど、エッチ話が得意やった。最も人間的なことやけど、誰も書かん。ある人が妙齢の女性と一緒に映画を観にいった時のエッチな話や、自分が夜這いした話とか、ぎょうさんしてくれた。
 小嵐 いやあ、俺も知りたい、とっても、その話を。部落解放同盟に入られたのはいつなんでしょうか。
 西岡 解放同盟に入ったのは、慶応の通信教育を受けにいってた時だから、一九五三年の二二歳の頃です。松本さんの所におった時にはもう入っていた。


●矢田の地から部落解放運動に全力投入

 小嵐 一九五八年に部落解放同盟矢田支部をつくり書記長になられます。そこにいたる格闘、とくに車友会、生業資金闘争、住宅闘争など組織化の骨法をお教えください。
 西岡 矢田クラブというのがあって、お寺が檀家を集めて実権を握ってた。矢田村時代は村長も部落出身、村会議長も部落の人です。部落の票だけでは村長になれんから、お寺は貧乏人から金を吸い上げ、その金で一般に働きかけて、村長を出し、議会議長を出した。そんな時代であった中で、なんとか部落解放同盟をつくりたいと思うた。在郷軍人が実権を握っていた一番保守的な部落ですよ。一番最後まで支部ができなかった。これではいかんというので、一九五五年に要求別組織をつくった。矢田冨田青年会です。解放運動を心がけて組織をつくろうと思うたけど、それでも三年かかった。
 まず車友会。空襲で焼けてなかった矢田では、徒弟制度で青年を四、五人使うて、バンドの留め金とか皮革の部品をつくって、それを西成に単車で持っていく。そやけど、無免許やから捕まって罰金とられる。職人五人を使っていたら、一人の職人が五割出して、親方が五割出して罰金を払わされる。これはいかんということで、運転免許を取るために、全国で最初に識字を教えたわけや。その時分は月刊誌で大きいのは『平凡』と『明星』しかなかった。それで字を教えた。そうしたら、親方は助かるわけです。「そういう青年会やったら青年会へ行け、行け」ということになる。僕らは天皇制打倒やとか言うから、あんなとこ行ったらアカに染まると言うて反対しとった親が、「そんな青年会やったら助かる」というわけや。単純な階級対階級だけの部落解消論ではなしに、身分制度として出てくる徒弟制度というものを打ち破るにはどうするかです。大資本・大独占に対する闘いというけど、部落は中小零細の中でも零細の零細ですわ。だから労資関係ではなしに、徒弟制度を逆に利用して、親方も喜ぶし、職人も喜ぶことをやるのが大事や。そういうことを学ぶわけです。
 借金奴隷についても、日掛けで月に五〇円集めなならんやつを、一〇人一組の班をつくって六〇円集めさすわけや。そしたらきちっと集まる。何で一二〇パーセント集めるかというと、途中で借った金は返さないかん。病人が出たりしたら返しにくうなります。だから、余計に集める。役所で金集める時に、一般では危険率を三割みとって、七割返ったらええとこやったんです。部落やったら五〇パーセント返ったらええとこやと、見とった。ところが役所の大阪市が驚いたんです、一二〇パーセント入ってくるから。これが生業資金闘争です。
 そんな中で、一九五七年七月に瀬戸内海の小豆島で第一回の青年集会がありました。解放同盟は、支部は矢田から作って回ったんです。上からやなしに下からね。それで一気に色んな所で支部ができていった。一点突破全面展開ですわ。ほうぼうで作って、それを線で結んで、そいで面にして束ねていくというわけや。
 部落のカッコ付き「無学」なおっちゃんやおばちゃんを獲得して、そういう人たちを基盤にして初めて運動も組織もできるんです。こういう人らは知恵者なんです。字を書かんけど、皆頭に入っとる。そういうおばちゃんにかかったら、「兄いー、結婚せい。結婚したら信用したるわ」と言われる。そんなおばちゃんには勝たらへんよ。「おばちゃん、そうします」と言わな、離さへんわ。
 小嵐 西岡さんは、〝旧遊郭〟の女性たちのたくましさについて語っておられます。私は『オール読物』という小説誌に売春街の女性の小説を連載したことがあります。
 西岡 僕は飛田の遊郭で学んだんです。ほとんど八割まで孝女ですよ。田舎で両親の薬が買えない。泉州の機織りの奉公に行っても、薬を買って送れない。そこで、流れて飛田の遊郭に来ると、ルートは大体決まっている。弟や妹の犠牲になって、学費を稼いでいる。そういうとこで勉強せんと、ほんまの勉強にならへん。
 小嵐 その後、大阪府連書記長、副委員長、中央本部執行委員、書記次長を歴任されます。その中で、一九六九年の矢田教育差別事件をめぐっては、その経過と結果からも糾弾権の意義、大切さが浮き彫りにされます。
 西岡 一九六五年に同和対策審議会の答申が出て、自民党につながる同和会は「打ち出の小槌」論、日共は「毒まんじゅう」論や。それに対してわれわれは「答申を武器にする」という立場や。理論の京都は、武器にするのは解放同盟の綱領だと言うけど、大阪は即物的だから「答申を武器にする」論や。僕は、大阪の書記長やってても、理論の朝田(京都)に近い。朝田はんとは、最後にけんかするんですがね。共産党との正面衝突はここらへんからや。
 その後、部落の子が多い学校から進学校に差別越境する実態を糾弾した。その中で、共産党員の教員が「同和教育の補習などがあって、午後四時に学校を出られますか。勤務時間外の仕事を押しつけられていませんか」という役員選挙用の差別文書を出した(一九六九年三月)。補習と言っても進学のためではなく、部落差別の結果、学力が低いから学力補充のための補習や。それが迷惑やと言うとる。越境通学は完全に差別ですよ。ところが、「それを言うたのは、労働条件改善のためであって差別ではない」と開き直った。これが日本共産党と正面衝突する要因ですわ。
 闘いの中で理論が創造されていった。すなわち三つの命題です。市民的権利が保障されていないこと、部落差別の社会的存在意義、「社会意識としての差別観念」という理論です。それを恐れた日本共産党は、朝田のおっさんが勝手に言うとるんだと「朝田理論」と呼んだ。共産党が一番悪いのは、「糾弾は暴力だ」と言うたことや。就労対策がうまくいってなくて、部落民は日雇い、土方をやっているわけだけど、そういう社会的な差別への糾弾権は労働権であり、団結権なんや。この規定を、共産党はようしない。共産党の本質である唯我独尊、民衆から学ぶということがない。
 われわれは脅迫されたんですよ。「書記長、あんたとこは『日本のこえ』を抱えてる」。上田卓三、大賀正行のことですわ。「あれらは裏切り者の志賀義雄の一派や。あんたみたいな共産党に好感をもってくれてる人が何事や。それやったら私たち二一団体は引き揚げる」と締め付けにきやがったから、「俺のとこは何も上田、大賀を『日本の声』として抱いているじゃない。部落解放のために一生懸命やっているから抱いているんだ。自分らの弟らと一緒や。きょうだいや」ということで、はねのけた。そんなことを言うてくるから、あれが決別の始めや。


●狭山差別裁判に沸々と怒りが湧いていった

小嵐 一九六三年五月に起こった狭山事件をめぐる狭山差別裁判についてお聞きします。高校生だった中田善枝さんが殺された事件で、被差別部落の石川一雄さんが別件逮捕、再逮捕され、だまされてウソの自供を強いられ、犯人にデッチあげられて起訴され、一審浦和地裁で死刑判決を受けました。石川さんは、二審第一回公判で無実であると訴えた。裁判では、石川さんと弁護団の努力で、「脅迫状、封筒、万年筆に石川さんの指紋がない」、「犯人の足跡とされる足袋と石川さんの寸法が合わない」、「万年筆が三回目のガサで出てきた」、「そもそも万年筆のインクが別」、「脅迫状の筆跡はそもそも違う」、「手配の時計と『発見』された時計は別」など数々の立証が行われ、えん罪であることが明白となっています。しかし、二審寺尾判決は無期、最高裁は上告棄却となり、石川さんは下獄を強いられました。仮出獄となっていますが、いまだに再審が開始されていません。
 西岡 僕が高津の夜間の高校生の時分に、行商で箕面に行ったら、秋の土曜日で皆、箕面の滝に行きよるわけです。その時に、僕は窃盗罪で捕まったんです。それが、僕自身が狭山闘争を闘う背景にあるんです。
 僕は、衣類とか「ドングロス」(麻の袋)に入れている。箕面は金持ちが多いから、古着に売れるようなええやつが入っとるんです。それを警察が見咎めて、「この中に盗品が入っている」と上から触って、「泥棒を捕まえた」というんで、ようさん人が集まって、いつの間にか僕は泥棒になっているんです。野次馬がようけ来よった。これではならじと、駅に行ってチョークを借りてきて、地面に円を描いて、「僕は夜間の生徒や。これから早よ帰らんと学校に間に合わん。この円の中に品物を出すから、ここから盗品が出たら捕まりましょ。盗品が出なかったらどうしましょう」と言うた。アジったんや。その時分は紅顔の美少年や。これは勤労学生やとわかると、形成が逆転や。「そんなポリ公は殺してしまえ」、「土下座して謝らせい」、「ワンワンと吠えさせ」とか勝手なことを言いよる。そうやって勝利するわけです。その経験があるから、石川さんはやってないと確信した。それが思い出としてきつぅーあってね、身体張って、ほんまに命かけても石川さんの無実を晴らさないかんと思うたんです。
 一九七〇年の一月一一日、大阪府連の青年の旗開きの時に、自分の生い立ちが走馬灯のように回りながら、僕がしゃべってて思わず泣いたんです。青年が二、三〇〇人おりましたが皆、泣きました。ハートを射たんです。狭山闘争を牽引するのに、その体験がものをいったんです。講師も『解放新聞』編集長をやってた文学者の土方鉄さんを呼んだ。物静かに、説得力があって、岩に水が浸みるように話をされて、皆が泣いた。権力に対する、許せんという怒りのるつぼや。狭山闘争を本格化する決議を挙げたんです。それで、大阪の青年が狭山闘争の中心になったんです。当時の狭山闘争には怒りがある。ほんまもんや。燃え上がるんです。なんで、わしらが狭山闘争で命がけになったんかということが、一番大事なんです。
 小嵐 その前の年、一九六九年一一月一四日に沢山保太郎氏ら全国部落解放研究会の五人が浦和地裁占拠闘争をやりました。
 西岡 そこは、昔の水平社の生き残りの人らはえらい。中央執行委員会で、わしの師匠の朝田善之助が、「ああいう浦和地裁を占拠して火炎瓶を投げたり、とくに高校生を連れて行ってやるのは、まちがっている。しかし、若者にああいう過激な行動をやらしているのはわれわれだ。われわれがもっと先頭に立ってやらんから、若い連中がはねあがるんだ」と言うた。朝善はすごいなあと思うた。それで解同として狭山闘争を強めていくんや。
 小嵐 はい、狭山事件での石川さん有罪の裁判を差別裁判糾弾として闘っていくと。一九七〇年五月から西岡さんを隊長として狭山差別裁判取り消しと同対審答申具体化を掲げた全国大行進が福岡から出発します。九月には当時青年対策部長であった西岡さんが狭山中央闘争本部の事務局長になられます。
 西岡 狭山事件の基本は、部落差別と、それにもとづくえん罪、それをやった権力犯罪という三つの性格がある。どこが差別か。それは石川さんの生い立ちの中にはっきり出てくるんです。五歳か六歳の時に近くの散髪屋に行ったら、関東では部落民を「ちょうりんぼう(註 被差別部落民に対する差別語)」と言うけど、「ちょうりんぼうや、くさい、くさい」と言われた。泣きながら帰って、お父さんの富造さんに聞いた。お父さんは、それは差別やとはいえないで、「侮辱するような散髪屋には行くな。他の散髪屋に行け」と言った。口惜しかった。石川さんは、家が貧しいんで自分の妹を学校におんぶして連れて行くから、勉強する時間はありません。学校で勉強したくても、できる環境でなかった。子どものやわらかい心に差別の傷痕が消えない。涙なくしては聞けない話や。
 彼は、「わが躯幹(からだ)、暗夜の獄に埋もれども心は常に荊冠旗の下」と歌っている。「自分が善枝ちゃんを殺したということになったら、部落民総体が人を殺すんだということになる」と思うて、自分の生い立ちの中に自分を見つめて、見直して、不屈の魂になっていくわけです。
 石川さんは、学校で勉強しようにもできなかったけど、獄中で狭山闘争で必死になって勉強した。狭山闘争をやってるから学校の勉強ができないという若いもんがおったら、「石川さんを見てみい。勉強のできる狭山闘争や」と僕が言った。狭山闘争は、老・壮・青・子の四結合や。「一人が万人のために、万人が一人のために」という思想が生き生きとみなぎった運動や。
 小嵐 狭山事件では、真犯人を眼の前で取り逃がした警察が、部落民に対して「犯人は部落民だ」と決め付けた差別的偏見で捜査に入ったというところにそもそも、問題があります。
 西岡 狭山事件の年の三月に東京で吉展ちゃん誘拐事件があって、警察が犯人を取り逃がした。大失敗した国家権力が威信の取り戻しのために、部落民をいけにえにしたんですわ。七人の変死者が出ているでしょ。権力犯罪がやられてるから、次々におかしなことが起こる。
 昔、ユダヤ人のドレフュス陸軍大尉が軍の機密を盗んでドイツに売ったというえん罪で獄に放り込まれた事件があった(註 一八九四年、フランスのドレフュス事件)。文豪ゾラが全ヨーロッパに号令をかけてえん罪反対の運動が高まって、長いことかかったけど、無実を勝ち取った。レーニンが『国家と革命』で、労働者が立ち上がってゼネストを起こしたり、下級兵士が立ち上がってやるよりも、一人の命を救うために立ち上がるということが、最も価値の高い革命やと言うとる。それを僕が引用して、「人権革命」論を言うとんや。
 小嵐 「狭山」の闘いが、一九七〇年代を通じて大きく盛り上がりました。部落解放同盟自身が大きくなり、文化人や作家も立ち上がり、あらゆる職場の労働者が行動を起こしました。その理由はどこにあったのでしょうか。
 西岡 「病気が治る狭山闘争や」と言うて、当時、病気で倒れとった野間宏さんを僕が引っ張り出した。「あんた、狭山をやれば病気が治りまっせ」と言うたら「メチャクチャ言うなあ」と怒りながら、やってくれて、病気も治ったんですよ。大内兵衛さんが、全共闘が東大を占拠したのを「東大を潰してはならじ。大学は特殊部落の構造がある」と書いた。それを糾弾したんです(註 『世界』一九六九年三月号に掲載した論文。糾弾を受けて回収)。土方鉄さんを連れて行って、そしたら本人は病気で倒れとるという。そのまま帰ったらあきまへんがな。大きな声出してたら、本人が出てきた。誠実な人や。「部落問題がようわからん。末川博さんに教えてもらいながら勉強します」と言うた。その後、一九七二年一月に末川さんと一緒に二人が呼びかけ人になって、野間さん、喜屋武眞榮さんら七人の侍で「公正裁判要請」声明文を作って全国にばあっと広げた。野間さんは、『世界』に「狭山事件批判」を書き続けた(註 同誌一九七五年二月号から一六年間一九一回連載)。
 映画を『俺は殺していない』『狭山の黒い雨』『造花の判決』と三つ作りました。劇では『闇にただよう顔(もの)』が作られた。闘争の中で文化や芸術が出てくる闘争やないとだめやと言うんです。闘いの中で文化や芸術に触れて、沸々と湧いてくる怒りを組織していくんや。
 水平社創立宣言の思想は、自立・自闘・自主解放です。そやから、「狭山」は真の連帯を希求する豊かな運動になったんや。今の運動は「ひらめ運動だ」と言うとんです。ひらめは上ばっかり向いとって、官僚主義じゃと言うんですよ。上意下達、唯我独尊、それではあかん。「狭山」は、こんだけの証拠が揃うているにもかかわらず、再審へ動かせない。なんでや。
 小嵐 私も当時、松本治一郎記念館(東京都港区六本木)に学習に行きました。
 西岡 松本会館には宿泊設備がない。東京の山谷とか横浜の寿に行って、野宿者と一緒に泊まった。ピンク色の焼酎があるんです。それは焼酎を半分ぐらい入れて、トマトで割るんです。おかずは一〇〇円。それで五人ぐらい飲めるんです。そこでオルグして運動を広めた。解放同盟の幹部に、そんなのはおらんですよ。その前から、釜ヶ崎の炊き出しをしたり、一緒に寝たりしてた。松本さんの選挙で全国行進をやったけど、狭山の全国行進(一九七四年八~九月)では、副隊長をやって、全国の部落を回った。ほんまに悲惨な状況が、静岡の温泉の裏側の五〇戸ぐらいの部落やった。愛媛の部落もそうやった。袋井は、部落産業が崩壊して仕事がない。そこで線路工夫をやってた。新幹線が来る所やから危ないわ。新幹線が止まってからの深夜業です。僕は中央の組織部長やったからオルグに入る。僕は、「きつい、きたない仕事をしてるけど、皆さんが鉄路を守っているんだ。産業の殉教者や」と、水平社宣言をひもといて話した。うわぁーと盛り上がった。それで、社会党でも革マル派でもない、施設労働組合ができた。僕はいつでも、どこでも、実事求是や。


●解放同盟の現状をのりこえる新しい地平へ

 小嵐 狭山闘争を牽引されながら、同時に部落解放同盟中国研究会を結成されました。また、その活動の中から、一九八二年、駒井昭雄氏と共に部落解放同盟の改革を求める「意見書」を出し、それをめぐり中央執行委員の選挙に出ることができなくなりました。
 西岡 意見書を出した動機は、解放同盟は腐敗・堕落している、物とり中心だということや。これは狭山闘争から学んだんですわ。狭山闘争がなかったら、今、解放同盟は解体してたでしょう。狭山闘争でようやく解放同盟の存在がある。法律ばっかり言うてるけど、法律は諸刃の刃なんです。法律に依拠したら、解放同盟の一番大切な糾弾闘争がでけんようになるんです。松本治一郎がそう言うとった。法律できっちとこうなってるんやさかい、糾弾せんでよろしいとなったら、それこそ糾弾イコール暴力だという日本共産党の路線に入るんですわ。闘えない解放同盟、闘わない解放同盟が生まれるわけです。糾弾闘争は、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という全人間解放の大きな武器なんです。法ばっかり言うて、これが皆、全然わかっとらん。それで中央に意見書を出した。
 その前段で北九州の木村という書記長の土地ころがし事件があったんです。僕は中央の組織部長として、組織点検指導に入ったから、実態はよう知ってる。
 小嵐 部落差別と天皇制について考えを教えて下さい。金(キム)静美(チョンミ)さんの『水平運動史研究――民族差別批判』(現代企画室)で書かれているような戦時中の天皇制への屈服や、松本治一郎さんの戦争礼讃演説(一九四二年)という歴史を踏まえると、どういうことが言えるのでしょうか。
 西岡 それははっきりしてまんがな。革命がなんで起きないのか。一つは、新左翼セクトの内ゲバや内内ゲバ、あれらの小ブルラディカル運動にある。全面否定してるんやない。どこでも学生が立ち上がって労働者が動いた。それはええ。ところが、民衆と遊離し、民衆を忘れてる。もう一つは、天皇制が日本革命に対する安全弁になっておる。皆、毎日のように天皇制に洗脳されてるんです。この問題をはっきりせなあかん。ただし、「反天皇制」と言うたら、「天皇殺せ」と受け取るわけや。部落のおっちゃん、おばちゃんに「反天皇制」と言うたら、「西岡さん、そんな過激なことあきまへんで」と言うから、「そうじゃないんだ。あんたがたゲートボールをやっとるだろう。そこへ天ちゃんが来て、私も仲間に入れてください、という運動なんやで。天皇さんがあんな窮屈な制度の中におるのを、人間にさせてやる運動なんだ」と言うたら、皆、大賛成する。天皇は神様でも何でもない、同じ人間だという水平思想です。そういう点が欠けてると言うんや。僕は松本委員長の愛弟子やから、「天皇も解放してあげるんだ」という「反天皇制」でなければいかんと言うんです。
 小嵐 いやあ、恐れ入りました。では、中央執行委員を辞められてからの格闘をお聞きします。矢田生活協同組合として温泉づくり、特別養護ホームの建設、町づくり、釜ヶ崎差別への取り組み、野宿労働者の就労保障、日本軍性奴隷の犠牲者支援、水環境問題、アイヌ問題など、実に多岐にわたり、深いものがあります。
 西岡 僕らの反差別部会の仲間が水曜劇というのを作って、日本軍性奴隷問題に取り組んでいます。その点については、僕は元軍国少年であったから、在郷軍人が強いから、ぼろくそに言われた。そやけど、天皇制軍国主義が日本軍による殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くすという三光作戦をやってきたんです。日本軍「慰安婦」に対して差別した。あの女性らが好んでやってるというのが通説なんや。そうじゃないんや。西野瑠美子さんらがきちんと批判していますよ。これは、日本のわれわれの先輩たちがやってきた過ちを自己の問題としてとらえて、取り組むべきや。沖縄問題と一緒ですわ。これをあいまいにしてはならじ、日本の良心が問われてると思う。
 小嵐 〝利権〟や〝エセ同和〟問題がありました。
 西岡 僕は狭山闘争で一九七〇年代から東京やったから、僕がおったら、とは言いませんが、飛鳥会・小西問題(註 二〇〇六年に飛鳥支部長・小西邦彦が逮捕・起訴された)はタッチしてない。簡単に言うたら、一番悪いのは銀行屋です。銀行で、部落と結びついたら出世するというのでやっている。その次は行政、融和行政や。極道の侠気をうまいこと利用してる。第三番目に悪いのは飛鳥の小西ですよ。
 大事なことは、いわゆる「反社会性」を社会性と見ることや。あの時分は就職するいうても極道の道しかない。中学生は安く使えるというので「金の卵」と言われた。同和の関係校から五人採る場合に、一般の人は四人採って、一人ぐらい部落の子を採ってやるというわけや。僕の解放理論は、入れ墨のお父さん、お兄さんを尊敬する教育をやれというもんです。おぎゃあと生まれる時からアルコール依存症で生まれてきますか。おぎゃあと生まれる時から入れ墨をしてますか。現象を現象と見るのは、差別なんです。入れ墨を入れているのは社会的現象であって、本質は、就職口がなかったから極道で生きるしかなかったんや。これは唯物弁証法の一番難しいところや。マルクスもエンゲルスも言うてないこと、ちゃうか。
 小嵐 マルクス『資本論』の第一巻の終わりでは「現役労働者や失業者の重荷」として差別される人人を〝差別的〟に置いている気もしますが、新鮮な西岡さんの考えですね。


●狭山の石川一雄さんの心は、わが心

 小嵐 二〇一二年で全国水平社結成から九〇年になります。部落解放運動の展望についてはいかがでしょうか。
 西岡 解放同盟のあんな法律万能主義では展望が開けない。レーニンもよう使ってる言葉やけど、「地獄への道は善意で敷き詰められている」と言いたい。権利の「利」がまちごうとる。利己主義の利や。道理の「理」でないといかん。差別、抑圧されている民衆のために、ここで荊冠の思想が出てくるわ。キリストがゴルゴタの丘で荊冠をかぶされて処刑された。流刑された親鸞が『唯信鈔文意』で「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と言う通りや。この「荊冠の思想」で臨まなきゃあかん。
 沖縄、広島、長崎、反基地・反核ですよ。原発一三基と「もんじゅ」一基がある福井県の原発銀座は、大体が部落の隣にできてる。そこにミサイルが一発ボーンと打ち込まれたら、どないなります。電機労連を中心として大きな労働組合は、原発でエネルギーをまかなっていると言うけど、原発はあかんよ。日本の労働組合は堕落した労働貴族やと、僕は見てるんです。なんで、あないなるんか。労働組合の後ろには大独占がおるからや。僕の言う人権革命は、沖縄と部落とアイヌの三角同盟をつくって中央権力を攻めるということや。脱亜入欧の反対で、「入亜」をやることや。朝鮮半島、中国、インド、東南アジアに主軸をおいて、それと日本のわれわれが結んでいくことです。百年来の帝国主義に対して反米闘争を起こさなきゃあいかん。
 小嵐 最後に、今の若者へ贈る言葉をお願いします。
 西岡 今の若者は何かと言われるけど、若者が悪いんじゃない。リーダーがわかってないとこがある。若者は、阪神大震災があったらボランティアで飛んでいくんです。それをリーダーが継続、発展させなあかんのに、それをしよらん。ここが一番のポイントです。くすぶらせても、燃えない。なぜ燃えないか。継承・発展させるリーダーがおらん。それはわれわれの責任です。どないしたら燃えるか。なかなか難しいね。これは僕の課題ですわ。僕もあんたに聞きたいわ。若者の集まるところにはどこにでも顔を出すんです。じーっと聞いてるんや。
 今の解放同盟の運動は、一言で言うと、アイデンティティ喪失の運動や。大事なのは、誇り、自覚なんです。自己の置かれている社会的立場、すなわちわれわれは差別されてるけれども、文化・芸術、芸能の創造者であり、担い手である。汚い・きつい・危険な労働をしてるけど、最下層の底辺で日本の産業社会を支えてる殉教者である。これを教えてないんや。石川さんの「わが躯幹、暗夜の獄に埋もれども心は常に荊冠旗の下」の歌を詠む時、いつも涙が出てくる。これが大事や。狭山闘争は、石川さんを救う運動であると同時に、石川さんに救われてるんですよ。
 狭山闘争はまだまだこれからや。人権革命は狭山闘争でやる。高齢者革命は高齢者の知恵を結集することでやるんです。高齢者は知恵者で国の宝ですわ。それと緑革命をやらなあかん。大和川をきれいにして、全国の原発をやめる。
 小嵐 今日は、狭山差別裁判糾弾闘争の貴重な教訓を再認識できました。ありがとうございました。
(おわり)

▲西岡智(にしおか・さとる)氏=1931年、大阪市矢田で生まれる。行商しながら勉学。1958年部落解放同盟矢田支部を結成し初代書記長。同大阪府連書記長などを歴任。狭山闘争の中央本部事務局長として狭山差別裁判糾弾の運動を指導。1981年解放同盟の改革を求める「西岡・駒井意見書」を提出し、翌年、中央執行委員に選出されず。矢田の中でさまざまな地域活動を起こす。現在、部落解放・人権研究所名誉理事、同反差別部会部会長。著書に『荊冠の志操』(柘植書房新社、2007年刊、編集・解説黒田伊彦・田中欣和)。

▲小嵐九八郎(こあらし・くはちろう)氏=1944年生まれ。作家・歌人。早稲田大学時代に学生運動に身を投ずる。94年『刑務所ものがたり』で吉川英治文学新人賞受賞。近著に『日本名僧奇僧列伝』(河出書房新社)。他に『悪武蔵』、『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』(講談社)、『歌集 叙事がりらや小唄』(短歌研究社)、『水漬く魂』五部作(河出書房新社)、『真幸くあらば』(講談社)など多数。







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