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評者◆星 真一(紀伊國屋書店梅田本店、大阪府大阪市)
「きっと書物とは全て祈りなのであろう」──小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』(本体1800円・新潮社)
No.3088 ・ 2012年12月01日
たとえば葬式のあと、精進落としの席で、顔はたしかに見たことがあるけれどどんな血縁なのかさだかではない、このおっちゃんだれやったかなあっていう遠縁のひとから、故人の意外な昔話を聞いたりすることがある。耳馴れない言葉で語られるせいか、妙になまなましかったり、反対に現実感を欠いていたりもするそんな話を、もっとしっかり聞いておけばよかったと軽い後悔とともに思いだしたのは、季節が晩秋だからではなく、わたしが人生の折り返し点を過ぎたからでもなく、小田雅久仁の『本にだって雄と雌があります』(新潮社)を読んだからにちがいない。たぶん。
たいへん大雑把にまとめてしまうと、深井與次郎という書痴の一代記を、與次郎の孫である博が、彼の息子である恵太郎に向けて書きつづる、その手記の体裁をとっている。伝聞と引用をベースに、地口、軽口、皮肉、大法螺を織り交ぜて枝葉末節紆余曲折に及ぶ物語はやがて、與次郎の生い立ち、ひととなりを越えて、彼が追いつづけた「幻書」にまつわる壮大な秘密へたどり着くことになる。ていうか、幻書ってなに? 「あんまり知られてはおらんが、書物にも雄と雌がある。であるからには理の当然、人目を忍んで逢瀬を重ね、ときには書物の身空でページをからめて房事にも励もうし、果ては跡継ぎをもこしらえる」と巻頭で声高に宣言される、その跡継ぎこそが幻書と呼ばれ、未だかつて書かれたことのない本が突如として生まれ、空をばさばさ飛んでいくのだからおもしろい。でも、いい子のみなさんは自分のたいせつな本がページをからめて跡継ぎをこしらえている場面を想像しないほうがいいと思うけど。 とはいえ語り手の博がなぜ、幼い息子のために家族の年代記を書こうとしているのか、祖父與次郎の人生と幻書とがどこでどう交わっていくのか、その理由を読み解くのがこの本の醍醐味になっているのだけれど、酒席の与太話にしか思えなかった物語が與次郎の死を境に物語と書物、宇宙、そして人生や未来をひとつの環のように包んでいくのは、つい先刻までいい気分でしゃべりまくっていた親戚のおっちゃんがじつは魔法使いだったのを知らされるような驚き、あっけにとられるとはまさにこのことだ。 物語の核心に触れてしまうので詳しく書けないのが残念だけれど、ここであきらかにされる世界観がすごい。バッタの大群みたいに空を舞う書物、幻書だけを集めた図書館。幻書との契約によって司書になる知識人たち。彼らを背に乗せ大空を羽ばたく六本足の白い象。 もちろん、だれにでも白い象が迎えにくるというわけではない。大多数のひとは司書にはなれないのだ。ならば、選ばれなかったふつうのひとびと、その死後はどのようでありうるだろうか。 物語は、生者には見えない一冊の書物と、宇宙の涯を隙間なくびっしりと埋め尽くす本棚、そんなイメージを提示している。それはとても魅力的でやさしく、わたしをなぐさめたのだった。 「きっと書物とは全て祈りなのであろう」 だと思ってた。やっぱりね。 |
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