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評者◆黒古一夫
豊富な「翻訳」と、貧寒としている「研究」──中国から見た現代の日本に迫る、短期集中連載⑥
No.3088 ・ 2012年12月01日
前回、村上春樹や莫言ら「世界性」を持った作家の作品さえも、「日本語科」の中国人学生にすら一般的には余り読まれていないという現状について報告したが、日本の近現代文学全般についての読まれ方はどうかと言えば、周知のように現代文学は村上春樹の作品を筆頭に、よしもとばなな、大江健三郎、森村誠一、松本清張など、近代文学は夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、島崎藤村、小林多喜二、中野重治、等々、文学史に登場する作家の作品はそのほとんどが中国語訳されて、多くの図書館に所蔵されている。また、多くは「日本語」を学ぶ学生の教科書用であるが、近現代文学史の類も数多く刊行されている。
しかし、これも先に少し触れたが、それら日本近現代文学の「研究」となると、「作品論」はもとより「作家論」、「文芸思潮論」に、私見の範囲だが、これぞと思えるようなものはほとんどなく、「貧寒」とした状況にあるように感じられる。論文指導を行なっている院生たちが持ってくる参考文献(中国人の研究者が書いたもの)について、漢字と院生たちの日本語訳を頼りにいくつか見てみたのだが、明らかに「間違っている」と思われる論考や、資料不足のために対象の分析や考察が不十分なものが多く、豊富な「翻訳」に比べて、「文学研究」の方はまだまだ「発展途上」、という印象である。 何故このような「いびつ」な状況が放置されているのか。理由の一つとして、「翻訳」はお金になるが、「研究」は大学の昇任などには役立っても、当面の収入には結びつかないということがあるのではないか、と思う。高度経済成長期の真っ只中にある中国にあって、「お金が全て」という風潮は研究機関(大学、等)にも浸透しているようで、それは中国社会全体を覆っている「金権主義」的傾向の反映でもあるだろう。つまり、日本語教師の多くは、「文学研究」よりもアルバイト(他大学の日本語科へ教えに行く)をして給料以外の収入を得ることに熱心だということであり、これは大学教師になれなければ「貧しさ」を強いられる日本の文学研究者(批評家)とどこか似ていて、物悲しい感じがする。 (つづく) |
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